神の相続人
今日はまず、北見男声合唱団の皆さまへの連絡です。
5月29日の記事で、次回の練習場所は未定と書きましたが、
次回6月2日(水)の練習場所はいつものカトリック教会です。
その次の6月9日(水)の練習場所は、端野町の石倉交流センターですので、
みなさん、お間違えのないように。
(自慢じゃないけど、一番あぶないのが僕。)
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5月30日の日曜日の教会礼拝において、「神の相続人として」と題して秋山牧師の説教が行われました。
(聖霊降臨節第2主日~三位一体主日)
教会の1年は、大きく二つの期間に分けることができる。
ひとつは「主の半年間」、もうひとつは「教会の半年会」。
主の半年間は待降節(アドベント)から始まり、降誕節、受難節、復活節と、イエス様の御生涯をたどってゆく半年間。
伝統的な教会の主要行事、イベントのようなものは全て、ここに集中している。(クリスマス、イースター、ペンテコステなど。)
教会の半年は、今日の三位一体日からはじまる半年間。教会生活の実践的な教えをわかちあう、地味で平凡な半年間。
イエス様の半年間をイベントの半年とするなら、教会の半年間は日常生活の半年間といえる。
この平凡な日常生活の積み重ねであるの半年間を、大切なものとして覚えたい。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは行きます。」(ローマの信徒への手紙8章13節)
今日の聖書箇所は、クリスチャンの日常生活に関する教え。
わたしたちの普段の生活には、ひとつの義務がある。
それは肉(=この世)に従って生きなければならないという義務ではない。
「肉」(=この世)ではなく、「霊」によって生きなければならない。
「霊」とはすなわち聖霊、神様の風、神様の息吹のこと。
それは主の御言葉によって生きるということ。
そして、主の御言葉によって生きる人は、神の子供、神の相続人として生きてゆくことができる。
(わたしたちはしばしば、『自分はダメな人間』『自分は価値のある人間』などの自分勝手な称号を与えて、喜んだり悲しんだりする。しかし、それは神様が私たちに与えた称号ではない。)
その「神の相続人」という称号は、私達が思う以上の意味、重みがある。
それは、イエス様の全てを受け継ぐ者ということ。
イエス様の栄光だけではなく、苦しみ、受難、十字架をもまた、受け継ぐ称号である。
栄光と苦しみ、復活と受難、希望と苦難は常にセットとなっている。
もし苦難を避けようとするならば、希望も与えられない。
逆に、苦しみを引き受けようとしるならば、栄光を受けることができる。
「(わたしたちが)もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章17節)
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よく「苦しいときの神頼み」と申しまして、ふつう僕らはたいへんな時に神様に助けを求めます。
でもキリスト教では、神様の栄光のために自ら苦しみを受けて道を切り開きなさい、と、常に言われているような気がします。
神様は、みずからを助けようとする者を助けるかたなのかもしれませんね。
