風に吹かれて
今日はペンテコステの日。
まず、ペンテコステとはなんぞやってところから話をしたほうがよさそうですね。
ペンテコステとはキリスト教の祝日のひとつで、「聖霊降臨祭」ともいわれてます。
イエス様が十字架にかけられた後に復活して天にのぼられたあと、
エルサレムで祈っていた12使徒(この時には、イスカリオテのユダはすでに命を落としていましたが…)
の元に聖霊が下ったことを記念する日です。
この日をさかいにキリスト教は、イエス様を中心とした共同体から、
「初代教会」と呼ばれる教会組織への第一歩を記すわけですから、
「教会の誕生日」とも言えるかもしれませんね。
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ということで今週の北見望が丘教会では、
「風に吹かれて」と題して秋山先生の説教がありました。
先週の続きとなっています。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
(使徒言行録2章1節~4節)
イエス様の最後の願いは、弟子たちが厳しい現実にとどまることであった。
弟子たちは、1度はイエス様の逮捕とともに逃げ出し、困難な現実から逃げ出したが、それでも彼らはイエス様のもとに戻ってきた。
(神様は、戻ってくるもの、やりなおそうとするもの、つまり、悔い改める者を、無条件に祝福される。)
それから、弟子たちは厳しい現実に踏みとどまることができた。
その現実に、祈ることによってとどまることができた。
(祈りこそ、命にとっての最後の砦、防波堤。)
そしてこの日、イエス様の約束のとおり、そこに風が吹いた。
炎のような『舌』が現れ、彼らの上にとどまった。
『舌』とは、つまり『言葉』。
炎のような主の御言葉に彼らは捕えられ、新しい言葉、未知の言葉(聖書の言葉)を語る者たちとなった。
そのようにして、彼らは厳しい現実を乗り越え、克服する者たちとなった。
もはや現実に支配される者ではなく、逆に、現実を支配する者となっていった。
聖霊の風を受け、主の御言葉の揚力に持ち上げられて人生の大空に舞い上がり、
そこを自由に、喜びをもって、誇りをもって、鷲のように滑空してゆく、そういう存在となっていった。
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今日は、洗礼式も行われました。
式を見ながら昔、釧路の教会で自分が洗礼を受けた時のことを思い出していました。
