鷲のように
どうも、ユーリです。
いま、ちょっとボーゼンとしてます。
なんでかというと、
まあ、例えて言うなら、富士山に登っているつもりでいたのが、
ふと気が付いたら、エベレストに登っているのに気付いたような。
で、頂上に行くまで、なんもかも足りないような気がしてきましてね。
装備も、体力も、経験も、時間もお金も寿命も…(笑)
まあ、それは後日書くことにします。
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5月16日の北見望が丘教会の礼拝では、
「彼らを守ってください」と題して、秋山牧師のメッセージがありました。
「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。」(ヨハネ17:9)
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らもひとつとなるためです。」(ヨハネ17:11)
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪いも者から守ってくださることです。」(ヨハネ17:15)
今日の礼拝箇所は、最後の晩餐のあとの、イエス様による祈りの箇所の一部。
神様の栄光や永遠の命といった、ある意味高尚で格調の高い祈りのあと、
ここでイエス様は、今日まで一緒に歩んできた十二人の弟子たちのために祈りをささげている。
しかもその一人はすでに裏切り者となり、残りの11人は、この後すぐに捕えられたイエス様の元を逃げ出す、そういう弟子たちのために。
イエス様は、そんな弟子たちのために、何を願われたのか?
死を目前にしたイエス様の最後の願いは、イエス様が主なる神様の元に戻られた後に、彼らが守られること。
彼らが今おかれている厳しい現実から逃げ出さずに、なんとかしてそこにとどまり、耐え忍び、持ちこたえていくこと。そして、そこから逃げ出す誘惑から、弟子たちを守ってください、ということだった。
なぜイエス様は、十二人の弟子たちが闇の現実の中に踏みとどまるように祈られるのか?
それは、そこで、風が吹くから。
そこで、精霊の風、ペンテコステの風が吹くから。
神の息吹は、闇の現実に踏みとどまる者に吹く。
だからこそイエス様は、弟子たちが厳しい現実に踏みとどまることを祈られる。
そして、私達は精霊の風に捕えられ、その風によって持ち上げあられ、引き上げられて、人生の大空を自由に、軽やかに、滑空する者となる。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上(のぼ)る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)
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雄武に住んでいたころ、よく鳥が空を滑空しているのを見ました。
まあ、たぶんあればトンビかなにかだったんだろうと思いますけどね。
釧路の教会でよく歌ったリビング・プレイズ(新しい讃美歌)に、「鷲のように」という曲がありまして、
「主を待ち望む、者はあらたに、翼をひろげ、上る」という歌詞だったんですが、好きな曲でしたね。
来週は、ペンテコステです。
