〈告白〉
人生の多くの場面において真の意味で僕は酷く不幸であったと思っている。そういうと、母親などに決して不幸ではなかった、経済的にも恵まれていたし、母親も父親もいた、っと反論されるのだが幸せとか不幸とかいうのは最終的には感覚の問題ではたからどう見えようと本人が不幸だと思っているならばその人は不幸な人なのだ。無論、僕が僕以外の人間で客観的に僕をみたならばおそらく「直視できない程不幸な人間だ、よく今まで生きてこれたな」と感心するだろう。
僕は他に類をみない程一般的な子供とは違った子供で、かといって何かの障害か病気かといったらそれにも当てはまらず一言でいうならばとても特殊な困った子供だった。僕はひょうきんものだと言われていたけれどそれは一側面に過ぎず実際はとても内向的でとてもこだわりが強くとても反抗的でそれでいながらあらゆる大人の事情を見透かしていていわゆる一般的にいわれる「可愛い子供像」からもっともかけ離れた子供だった。僕の反抗は時として体を壊してしまう程熾烈なもので自分にとって利益など何もなくただ強い悪魔の反抗心のもとに行われていた。それはほとんど自爆攻撃に近いようなものであった。寝ない、食べない、自分を極限の状況まで追い込み親や他人を傷つけるといったものであった。
どのようなかたちであれ基本的に違うということは苦しみである。そういう意味で僕の人生は真の意味で苦しみに満ちたものだ。僕が他人の苦しみを敏感に察知するのは自分が多くの精神的な苦しみをあじわってきて多くの苦しみがどういうものであるか知っているからである。苦しみの記憶は体の節々に刻まれていて、今でもたまに表面に表れては僕に苦しみを思い出させる。とても苦しみに満ちた人生だ!僕は異論を受けつけない…。
さて、僕は今まで自分が不幸である。僕の人生は苦しみに満ちていると述べてきたがそれでは現時点において果たして僕は僕の人生において何も希望を見いだしていないのかといったらそれは異なる。しかし、僕はもう「自分の幸福の為だけに生きる」ということができなくて「人に幸福を与えることにより自分も共に幸福をみつけること」「人間全体にとっての真実をみつけること」に生きる希望を見いだしている。
では、果たして僕に私欲はないのかといったらそれは大いにあって寧ろ僕は欲が強い人間の部類に入るかもしれない。僕が十代後半や二十代前半の頃に仏教などの宗教に強く惹かれたのは自分の不幸の為だけではなく寧ろその欲の強さの為であったかもしれない。僕はあらゆることを知りたがり、権力を欲し、金を欲している。では、欲が生きる希望に直結しているかといったらそれは違くて寧ろ欲は僕に煩悩を抱かせ絶望を抱かせるものである。絶望の観念と強く結びついたものである。しかし僕は29年生きてきて欲を上手くはぐらかしたり滅却したり処理する方法を習得したつもりでそれによって欲によって絶望的な境地に陥るということはなくなった。
うむ…。それにしても、まぁ、なんて苦しみや不安を敏感に感じやすい、幸せや安らぎを感じにくい体質なのだろう。生まれもったこの体質故にぼくは何度絶望的な境地に陥ちいったかしれない。17歳の頃にはついに喜びをまったく感じられなくなってしまったことがあった。全部、苦しみと悲しみと絶望だけ。どのようなことをしても最終的に苦しみが来るためあらゆることに対してやる気を失ったのも当然だ。
やはり、現時点において僕は自分のことを酷く不幸な人間だと思う。しかし僕は同時に(おそらく)強い意志やほとんど無謀な反抗心を持っているため辛うじて生き長らえているのだ(たぶん)。もう、自分の幸福など問題ではない…、実は問題かもしれないが僕はそれでも他人に何かを与えようと企むだろう。与えられるよりは与える方がまだマシだ。与えられる生き方よりも、与える生き方のほうがマシ。だから、僕はこれから先、自分が例え死ぬような出来事に見舞われたとしても周囲の人間を絶望に陥れるようなことはしないだろう。僕は希望を与えその希望を共有する。もう、それにしか希望を見いだすことはできない。
10.30.2017