競走馬ディープスカイ(Deep Sky) -2ページ目

ディープスカイ 父 アグネスタキオン 早熟説

2005年は史上最多タイとなる25頭もの勝ち上がりを記録したにも関わらず、2勝馬は僅か2頭に留まり、途中まで首位に立っていた2歳種牡馬ランキングも最後には父サンデーサイレンスに抜かれてしまった。更に翌年には、ロジック、ショウナンタキオンという重賞を制覇した代表産駒までもが不振に陥いった。このことから、現役だった2歳暮れ~3歳春に無類の強さを誇ったアグネスタキオン自身の成績や、アグネスタキオンの母の父が早熟で知られるロイヤルスキーである事が注目され、「タキオン産駒早熟説」が語られるようになった。


この「早熟説」に対しては、「体質が弱いため、仕上がりが早いからと言って早い時期に強い調教を施したり、強気に使ったりすると消耗してしまう」とする反論もある。実際には印象論と反して、3歳秋以降に下級条件で勝ち星を重ねる産駒が多いので、所謂「早枯れタイプ」とは言い難い。また、デビューの遅れたアグネスアークが古馬になって天皇賞(秋)で2着し、ダイワスカーレットが3歳秋にG1級競走を連勝し、さらに牝馬ながらに有馬記念でも2着に入線している。そして、変則二冠を達成したディープスカイに至っては、勝ちあがるまで6戦を要したほどで、2歳時には全く能力を出し切っていなかった。絶対的なサンプル数が足りないため、産駒の傾向を判断するためには時期が早いが、「早熟説」に対する認識はやや和らいでいる。

ディープスカイ 母の父 チーフズクラウン

チーフズクラウン(Chief's Crown)はアメリカ生まれの競走馬及び種牡馬である。1984年にエクリプス賞最優秀2歳牡馬を受賞している。


ディープスカイ 母の父 チーフズクラウン 経歴

1984年にベルモントパーク競馬場で競走馬デビューし、デビュー3戦目で初勝利を挙げた。続くサラトガスペシャルステークスを制して重賞初勝利を挙げ、次のホープフルステークスを制してGI競走初勝利を挙げた。次のフューチュリティステークスこそ2着だったものの、カウディンステークスとノーフォークステークスを連勝し、ブリーダーズカップジュヴェナイルも制した。


3歳となった1985年は、スウェイルステークス、フラミンゴステークス、ブルーグラスステークスを制し、前年から6連勝を達成してアメリカ三冠レースの第1戦目のケンタッキーダービーに大本命で出走したがスペンドアバックに敗れて3着だった。続くプリークネスステークスは2着、ベルモントステークスは3着と惜敗が続いた。その後休養し8月のテルステークスで実戦復帰を果たしたが4着だった。しかし次のトラヴァーズステークスを制しGI競走7勝目を挙げた。その後3戦して2勝を挙げ、ブリーダーズカップクラシックで4着となったのを最後に競走馬を引退した。

ディープスカイ 母の父 チーフズクラウン 種牡馬時代

1986年よりダンチヒ初の後継種牡馬として繁殖入りし、グランドロッジやチーフベアハートなどを輩出して自身の血脈を残すと共にダンチヒ系の発展に大きな功績を残し、1997年に死亡した。


日本にも競走馬としての産駒が輸入され、ペイストリーシェフが中京3歳ステークスを制しているが重賞馬は輩出できなかった。しかし種牡馬として輸入された産駒のチーフベアハートは成功を収めている。