「椿三十郎」と「天国と地獄」 | 映画ハック!

「椿三十郎」と「天国と地獄」

先週末から織田・三十郎・裕二の「椿三十郎」が始まって、劇場は土日混んだらしい。最新作をまだ見ていないけれど、この週末は黒澤明の「椿三十郎」と「天国と地獄」を続けてDVDで再見した。


どちらもモノクロの映画であるが、黒澤明のこだわりは赤い椿を黒く塗って、モノクロ画面で赤を強調したり、「天国と地獄」では煙突からでる煙がピンクに着色されてでる印象的なシーン等、もともと絵を描く黒澤明ならではの色彩感覚が抽象化されて、モノクロームの画面に反映されている。


どちらも東宝から独立して黒澤プロダクションとして製作してる。しかも二年連続して作られ、どちらも当時大ヒットした。


ある意味で、興行的に黒澤映画のピークを達成した両作品には、黒澤明の創作者としての本音がのぞく台詞がある。


映画を当てなくてはならない。


興行的にヒットさせなくてはならない重圧はいかばかりであったろう?


スタンリー・キューブリックもまた終生、ヒットし続けなくてはならない宿命を負っていた。あの天才の寿命を縮めたものがあるとすれば、この重圧ではなかったか?と今もボクは考える。


映画を芸術として捉えている映画監督は、おそらく芸術分野で最も過酷な宿命を負うことになる。


そんな視点で、この二作をみれば、椿三十郎も黒澤の分身であるし、「天国と地獄」の権藤もまた黒澤の分身である。


権藤はすべての財産を失ってしまう。事件の解決によって営利誘拐の犯人からお金を取り戻すけれど、理不尽な中で全財産を注ぎ込むという決断を権藤が苦渋の中で下したことが、黒澤にとって意味のあることだったに違いない。


少なくとも、黒澤はこの二回の博打に勝った。


しかしこれを最後として、二度と博打に大勝利することは、なかった。


天才をも蝕んだものを、われわれは考えなくてはならない。日本で映像を追求する宿命がある。今現在でもこの課題を克服しつつ監督は生きなくてはならないという宿命を負っている。