高校の時には最後まで読めなかった「人間失格」でしたが
今回はちゃんと最後まで読むことができました。
で、しばらく考え込んでしまいました。
この主人公、生きにくかっただろうな。
私もそうだけど、本音だけで生きてる人はいないと思う。
本音と建前があるから
円滑なコミニュケーションが測れるし
人を傷つけずにすむこともあるし
自分が傷つかないこともある。
でも、そこに、本音を言える相手が存在しなかったら、
本当の自分を理解する(理解しようとしてくれる)人が誰もいなかったら
どういう人生になるんだろう。
主人公は家族にさえ、本当の自分を見せてなかった。
ということは、心が休まる場所は
自分の中にしかないって事になる。
いつも気を張って
誰かからの評価を気にして
「愛される自分」を演じ続けなきゃいけない。
その評価が崩れると
自分の存在意義すら分からなくなると思ったのかな。
誰かに悩みを打ち明けるとき、本音を話す時って
その人のことを信頼してるからで
「分かってくれない」と思う人には
決してしない行動だと思う。
それって、誰かに理解してもらいたいっていう気持ちが
あるからなんじゃないかと思う。
もし、自分は誰からも理解してもらえないし
本当の自分を知る人なんていないと思ったら
この世に生きている意味さえ分からなくなるような気がする。
死ぬという選択肢が出てくる。
だけどこの主人公は一人で死ぬこともできないんだから
生きることも死ぬことも満足にできない自分を責めたのかな。
理解してくれる(しようとしてくれる)人がいるって
それだけでありがたいし
そういう人がいると思うだけで
頑張れる事だってたくさんあると思う。
逆に「理解してくれる人なんていない」と思うと
その悩みについては底なし沼になることもあるかもしれないね。
それに、「分かる」って言っても分かるはずないじゃないか!と
言いたくなる時だってあるし
人を理解しようとするのはとてもむずかしいと思う。
聞き上手な人は、そこが上手いんだろうな。
理解についてもそうだけど
例えば、何かしてあげたいと思える相手がいる事も
生きている意味があると思える。
自分のやるべきことが分かってる時もそう思える。
この主人公には、何もなかったのかもしれないな。
ただ、本当の自分を理解して
それでも愛してくれる人がほしかったんだろうな。
愛情に飢えてると思えない人でも
実はもっともっと注いでもらわないと
不安定になる人だってたくさんいるような気がする。
そうしないと、自分を保てない人だってたくさん。
「分かってほしい」から、
「そうだね」って共感して欲しいから相談するのなら
人から相談された時に
「この人は私を分かってくれる!」と思わせる事ができれば
その人の信頼を得ることができる。
『洗脳』を思い浮かべちゃった。
だって、そういう時はたいてい心が弱ってる時だから
喪黒福造みたいに
「ココロのスキマ、お埋めします。
ダーーーーーン!」
ってやられると騙されそう・・・。
でもって、結局じゃあどうすれば人生充実するのかと聞かれると
やっぱり迷路の中にいるような、
日々頑張るしかないんだろうなという事しか思いつかない。
人が弱くなる場面なんてそこらじゅうに転がってて
そこを乗り越えられるかどうかは
結局人とのつながりなのかな、と。
その人に寄り添おうという気持ちを持って接するしか
今のところ思いつかないや。
分かるか分からないかじゃなくて
「分かろうとすること」が大切なんだと思う。
考えの浅い私の感想だから
太宰治が言いたかった事とは程遠いと思うけど・・・。