1 『猫の爪の色』
春の風の匂いが好き、と君は言った。
高校生のころ、教室で君は、よくそう言っていたっけ。
そして俺は、そんな君のことがずっと大好きだった。
水面を渡ってくる風が、やわらかい日差しの暖かさを、少しだけクールダウンさせた。
春の匂いがする風を感じる、午後1時。
俺たちは川ぞいの土手の、コンクリートの上に並んで腰掛けながら、久しぶりに話をしていた。
「ねぇ、猫の爪って何色だか知ってる?」と君が、微笑みながら俺に聞く。
「うーん、飼ったことないからな、猫って・・・」と、俺は答える。
確かに俺は、犬しか飼ったことがない。
たとえばダックスフントの場合。
クリームだと爪は白いし、ブラタンだと爪は黒い。
猫は……、どうなんだろう?
黒猫は黒くて、白猫は白いのだろうか?
だとしたら、キジトラや三毛は……?
俺は、そんなことを考えながら、そばに落ちていた小石を川に投げ入れる。
ポチャン、と水面に波紋が広がる。
真ん丸い、輪だ。
「あのね、あたし……。結婚することにしたの」
突然君が、そう切り出した。
えっ?
俺は、耳を疑った。
いったい誰と……?
……いや、しかし。
それで良かったのかも知れない。
俺は動揺しながらも、そう納得しようとしていた。
「……でね、とりあえず料理教室に行きはじめたの。やっぱり、おいしい料理を旦那さまに食べさせてあげたいじゃない」
そう言って君は、楽しそうに笑った。
久しぶりに逢った君の心を、俺は量りかねていた。
お互いに愛し合っていたからこそ、俺は距離を置こうと思った。
少しの時間の間に、君の心は、そんなにも離れて行ってしまったのか?
それは、実はとても寂しい事実だった。
でもそれは、俺が望んだ通りのことでもあった。
「猫の爪の色はね……。毛色によって違うし、でもその猫によっても違うの。黒猫でも透明っぽい白い爪のもいれば、黒い爪のもいるの。そしてそれは、決まっていないの」
俺は、黙って水面を見つめていた。
「ねぇ、聞いてる?」と、君は言った。
「あぁ、うん……」と、俺は答える。
「だから……、わたしと結婚しようよ」
えっ?
「あのね……猫には、いろいろな色の爪があるように、結婚にもいろいろな形があると思うの。だからわたしは、あなたと結婚したい。そう決めたの」
俺は、君の顔をじっと見る。
君は、すべてを知っているはずなのに……。
俺は、もう長くは生きられないと思う。
病気はどんどん進行していく。
だから俺は、君と離れようと思ったのに……。
そのとき俺は、凛とした君の美しさに見惚れてしまっていた。
そして君が、ゆっくりと口を開く。
「料理教室ってね、楽しいのよ。おいしいものを誰かに食べさせたいって、みんなが思って集まっている場所だから」
そう言って君は、楽しそうに笑った。
そのとき俺は、君と一緒に生きてみよう、と思った。
君が望むのなら……。
その時間は短いかもしれないけれど、君に何かを残せるのならそれでも良いのかも知れない。
俺はそのとき、確かにそう感じていた。
初めて、そう感じることが出来たのだ。
「俺も行きたいな、料理教室……」
そう言った俺の手を、君は微笑みながら、やさしく握り締める。
俺たちの結婚生活は、どんな色なんだろう?
いや。
そんなことは、どうでも良いことだ。
二人が一緒に居られれば、それだけでいい。
そう思いながら俺は、片方の手でもう一度小石を川に投げ入れた。
ポチャン!
波紋がまた真ん丸い輪になって、ゆっくりと広がっていった。
もうすぐ、君の70歳の誕生日。
その日に籍を入れよう。
俺は、そのときそう決めていた。
『猫の爪の色』
了