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えっ?
俺は、弥生の意外な言葉に耳を疑った。
「……あたし、ロンドンに行くの。来週から……」
そう言いながら弥生は、まっすぐに俺を見つめた。
「ママが死んでから、あたしはずっとひとりだった。パパは仕事でずっと海外だったし、ね……」
そうだったのか……。
俺は、弥生が抱えていた悲しみを知らなかった。
知ろうとしたこともあったが、結局は知ろうとしなかったのだ。
「あたし、ずっと考えていたの。自分がどうするべきかって」
微笑みながら、しっかりと決意を話す弥生は、とても美しい。
「ロンドンで、アートを勉強したいの……」
俺は、自分が情けなかった。
こんないい歳をして、俺は……。
それに比べて弥生は、とても立派だ。
「ありがとう、お兄ちゃん!お兄ちゃんのおかげだよ」と弥生は言った。
俺は、無理をして微笑む。
それをここで否定しても、意味がないからだ。
「お兄ちゃんは、あたしを大切にしてくれた。だから、あたし救われたんだよ」
そう言いながら弥生は、俺にゆっくりと抱きついてきた。
俺は、目を閉じる。
そして、弥生をギュッと抱きしめる。
「……お兄ちゃん。あたし本当は二十歳(はたち)だよ。だからお願い。最後に……」
俺は、弥生の涙を親指で優しく拭った。
そして。
俺と弥生は、久しぶりのキスを交わした。