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俺は、女の視線に敏感だ。
特に、何かの感情を含んだ視線には。
エミの俺への視線が変わったのは、小さなライブハウスでやった、あるライブからだった。
エミは、自分の音楽性と、俺たちのバンドとの音楽性の違いに戸惑っていた。
そして、明らかに元気がないエミのことが、俺は気になって仕方がなかったのだ。
俺は、なんとか無事に終わったライブの帰りに、エミに声をかけた。
「なぁ、エミ…。おまえ、何か違うと思ってるだろ」
「……。いいのかなって思ってね…。あたしだけ、ちょっと違ってるっていうか…」
そう言うエミを見ながら、俺はエミの気持ちに心動かされていた。
そして俺は、自分のことを反省した。
果たして俺は、エミほど真面目に音楽に取り組んできたのだろうか、と。
「あのさ、悩まなくてもいいじゃん。話し合ってみようよ。歩み寄る努力をしてみて、ダメなら無理してやらなくてもいいんだし、さ」
エミは、少しの時間何かを考えているようだった。
そして、こう言った。
「ありがとう、優しいんだね」と。
エミと俺たちは、いろいろと話し合いながら、なんとか歩み寄ろうとした。
しかし…。
「もう一緒にやらなくても、いいんじゃないの?」
タケシも下山も、同じ結論を出した。
そして、もちろん俺も…。
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結局、エミは俺たちのバンドから脱退することになった。
そのことに関しては、エミも納得していた。
しかし…。
ある日曜日、エミから突然電話がかかってきた。
「あのね、ヒロユキ…。これから、ちょっと逢えない?」
一時間後。
俺とエミは、太田川放水路の土手にいた。
水の上を通った初秋の風が、爽やかに感じられる。
俺のシチズンの針は、午後3時を回っていた。
何度も言うが、俺は女の視線に敏感だ。
特に、何かの感情を含んだ視線には。
「あのね…。いろいろ、ありがとう。楽しかったよ、一緒に活動出来て…」と、エミは言った。
「…うん」
俺は、エミが俺を呼び出してまで、何を言いたいのか、予想はついていた。
それは、エミの視線からも明らかだった。
しかし…。
俺はそのとき、エミと沙樹を天秤にかけていたのだ。
俺は、沙樹のことが好きだった。
いや、好きになろうとしていた。
美佐に似ているエミを、俺は好きになる訳にはいかない。
俺は、そう決めていた。
「…あたし、ヒロユキのこと…」
そう言いながら、エミが抱きついてくる。
俺はそのとき、エミにあえて冷たい態度を取ろうと決めていた。