35
俺と有紀は、バスに乗って街に出た。
まずは、喫茶店に落ち着く。
ここは以前、沙樹とよく来た店だった。
「ねぇ、久しぶりだね、デート。映画以来だよ!」と、有紀はハシャいでいた。
俺と有紀は、何回か一緒に映画を見に行ったことがある。
有紀が下村と付き合い始めた秋以来、さすがにふたりで行くのは止めていたが。
俺は、楽しそうに話す有紀を見ながら、ある違和感に気付いていた。
やはり、いつもの有紀ではない…。
やる、やらないは別にして、下村と何かあったな、と俺は確信した。
「…なぁ有紀、下村と何かあっただろ?」と、俺は単刀直入に、有紀に聞いた。
有紀の表情が、一瞬にして曇る。
「さすがにひろ君だね…あのね、私たちもうダメみたいなんだ…」と、有紀は言った。
昨日、下村と有紀に、いったい何があったのだろう?
下村からいろいろと話を聞いていたし、しかも一緒にコンドームまで買いに行った俺としては、なかなかにつらい状況だった。
もちろん、有紀は俺が下村から話を聞いているなんて、夢にも思っていないだろうが。
そのとき、有紀の目から、涙が溢れ出した。
やばい!泣かせた?
俺は、泣いている女に弱い。
しかも、こんな喫茶店のなかで…。
そのとき俺は、有紀にかける言葉が見つからなかったのだ。
36
静かに涙をこぼす有紀に、俺がしてやれることといえば、ただハンカチを差し出すことくらいだった。
本当なら抱きしめてやりたいが、喫茶店のテーブルをはさんで座っている状況では、そうもいかなかった。
俺は、有紀が落ち着くのを静かに待った。
涙は、心を落ち着かせる。
しばらくすると、有紀はすっかり泣きやんでいた。
「ごめんね…。泣いちゃって」と、有紀は言って、それからいつものようにニッコリと笑った。
俺と有紀は店を出て、映像文化ライブラリーに向かった。
そこは市がやっている施設で、無料でいろいろな映画を見ることが出来る。
俺たちは、そこまで並んでゆっくりと歩いた。
有紀は、俺の腕に絡みついていた。
下村と付き合ってから、こんなふうに有紀が俺に甘えてくるのは、初めてだった。
俺は、少しドキドキしていた。
15分後。
俺と有紀は、肩を寄せ合って小さなモニターを見ていた。
ラモリスの「赤い風船」が流れ始める。
画面を飛んでいる赤い風船を見ながら、俺は寂しさを感じていた。
下村の有紀への気持ちを知って以来、俺は有紀に関心を向けないようにしてきた。
しかし。
間もなく、有紀と過ごす時間も終わりを告げるのだ。
俺は、有紀の顔を横目で盗み見た。
有紀はまた、静かに泣いていた。