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今日の恭子は、いつになく穏やかだった。
恵比寿のその店の雰囲気が、俺たちをそうさせてくれたのかもしれない。
あの頃の恭子は、いつもいろいろなことにイライラしていた。
もちろん大半は、俺のせいだったのだろうが、すべてがそうでもなかったようだ。
仕事への不安、ジレンマ…。
そんな時に現れたのが、例の新しい男だった。
人と人との出逢いは不思議なものだ。
まさにそのタイミングで出逢うことが、運命的に感じられる。
しかし、そんなものは幻想でしかないのだ。
都合良く考えられれば、すべてが運命的なのだ。
逆を考えればすぐに分かることだ。
すべてが偶然だ、と言い切ることだってできる。
すべては、思い込みなのだ。
俺は、そんなことを考えながらも、穏やかに微笑みながら恭子の話を聞いていた。
「変わったね、ひろ…」
恭子は、呟くようにそう言った。
心なしか恭子の目は、潤んでいるように見える。
「あの頃のわたしは、いろんなことが怖かったのよ。だから彼にすがらざるを得なかった…。今のひろだったら、わたし…」
「そっか…」
俺は、優しくそう言いながらも、この女は相変わらず自分勝手なんだな、と感じていた。
俺には、すでに恭子への愛は無かったのだ。
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恭子の瞳から、ひと粒の涙がこぼれ落ちた。
俺は、その涙を見ても、もう何も感じない…。
俺は、そうしようと心がけていた。
皮肉なものだ。
こちらの心が離れれば、向こうから追いかけてくる。
そして、向こうが離れれば、こちらが追いかけたくなるものだ。
人の気持ちなんて、本当にいいかげんだ。
そのときの気分で、感情は全く別の方向を向いてしまう。
好きという感情とは、なんだろう。
愛という感情とは、なんだろう。
本当のことを言えば、俺はそのとき、心を揺さぶられていた。
しかし、もしいま感情に流されてしまったとしたら、今までと同じではないか。
だからこそ、俺は感情を殺すことに決めたはずだ。
「彼氏とはどう?幸せなの?」と、俺はにこやかに恭子に尋ねる。
恭子は、寂しそうに微笑んでこう言った。
「彼ね、奥さんがいるのよ…」
俺は、大きな衝撃を受けていた。
知らなかった…。
どうしてそんなヤツと…。
俺は、頭に血が上るのを自覚していた。
「ひろには分からないと思う。でもね、好きになるのに理由はないの。彼とは、気持ちをガマンしたくないって、初めて思えたのよ」
恭子は、はっきりと俺に、そう言ったのだ。