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恭子は、俺が思っていたよりも簡単に罠に落ちた。


適度な時間は、思い出をいい具合に発酵させるようだ。


俺は、恭子に対する数々のひどい行いを素直に詫びた。


恭子は、俺の話を黙って聞いていた。


しかし、あの俺が素直に謝ること自体、恭子にとっては意外だったのかもしれない。


それほどに俺は、ひどい男だったのだ。


そして俺は恭子に、果たしていない約束を、どうしても果たさせて欲しいと頼む。


その約束とは、恭子をある店へ連れて行くということだった。


そこは、家庭的なフレンチを食わせるレストランで、以前から恭子を連れて行くと約束していたのだ。


あの頃の俺と恭子は、休日ごとにいろいろな店を食べ歩いていた。


その店は、俺にとっても、恭子にとっても特別な場所だった。


だからこそ、最後まで一緒に行かないでいたのだ。


その店で恭子と食事をすることで、本当に俺たちの関係を終わりにしたい。


それが俺の、表向きの願いだったのだ。


恭子が、ついに口を開く。


「わかったわ、ひろ…」


恭子は、ついに折れたのだ。



俺と恭子は、一年ぶりに逢うことになった。


そしてこれが、俺の新しい生き方の始まりとなったのだ。


77


次の金曜日。


午後8時35分。


俺と恭子は、約束の店で一年ぶりに逢っていた。


にこやかに食事をする俺たちは、まるで恋人同士のように見えることだろう。


俺たちは、5年の年月を共に過ごしたのだ。


しかも、濃厚な5年間を…。


多少の時間離れていたとしても、お互いの気持ちが穏やかであれば、すぐにあの頃に戻れる。


そんなもんだ。


もしかしたら俺は今、あの頃よりも幸せな気持ちなのかもしれない。


嫉妬や疑念。


束縛し、束縛されるもどかしさ。


そういった余計ものは、すでにすべてなくなっていた。


俺は、そんな関係を心底楽しんでいた。


これで、気負いもなく、冷静にゲームを進めることができる。


目的は、ただひとつ。


もう一度、恭子を落とすことだ。


成功しても、先はないゲーム。


失敗しても、まぁ別にどうってことはないのだ。


まるで競馬の、ノーマークの逃げ馬のようなものだ、と俺は思った。


先があったとしても、その時はその時だ。


気負いなく行けば良い。


一番重要なことは、俺が本気にならないことだ。


いかに冷徹になれるか?


それが今の俺の、唯一のテーマだったのだ。