76
恭子は、俺が思っていたよりも簡単に罠に落ちた。
適度な時間は、思い出をいい具合に発酵させるようだ。
俺は、恭子に対する数々のひどい行いを素直に詫びた。
恭子は、俺の話を黙って聞いていた。
しかし、あの俺が素直に謝ること自体、恭子にとっては意外だったのかもしれない。
それほどに俺は、ひどい男だったのだ。
そして俺は恭子に、果たしていない約束を、どうしても果たさせて欲しいと頼む。
その約束とは、恭子をある店へ連れて行くということだった。
そこは、家庭的なフレンチを食わせるレストランで、以前から恭子を連れて行くと約束していたのだ。
あの頃の俺と恭子は、休日ごとにいろいろな店を食べ歩いていた。
その店は、俺にとっても、恭子にとっても特別な場所だった。
だからこそ、最後まで一緒に行かないでいたのだ。
その店で恭子と食事をすることで、本当に俺たちの関係を終わりにしたい。
それが俺の、表向きの願いだったのだ。
恭子が、ついに口を開く。
「わかったわ、ひろ…」
恭子は、ついに折れたのだ。
俺と恭子は、一年ぶりに逢うことになった。
そしてこれが、俺の新しい生き方の始まりとなったのだ。
77
次の金曜日。
午後8時35分。
俺と恭子は、約束の店で一年ぶりに逢っていた。
にこやかに食事をする俺たちは、まるで恋人同士のように見えることだろう。
俺たちは、5年の年月を共に過ごしたのだ。
しかも、濃厚な5年間を…。
多少の時間離れていたとしても、お互いの気持ちが穏やかであれば、すぐにあの頃に戻れる。
そんなもんだ。
もしかしたら俺は今、あの頃よりも幸せな気持ちなのかもしれない。
嫉妬や疑念。
束縛し、束縛されるもどかしさ。
そういった余計ものは、すでにすべてなくなっていた。
俺は、そんな関係を心底楽しんでいた。
これで、気負いもなく、冷静にゲームを進めることができる。
目的は、ただひとつ。
もう一度、恭子を落とすことだ。
成功しても、先はないゲーム。
失敗しても、まぁ別にどうってことはないのだ。
まるで競馬の、ノーマークの逃げ馬のようなものだ、と俺は思った。
先があったとしても、その時はその時だ。
気負いなく行けば良い。
一番重要なことは、俺が本気にならないことだ。
いかに冷徹になれるか?
それが今の俺の、唯一のテーマだったのだ。