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その日、ポルシェの機嫌は、なぜか悪かった。


アイドリングの回転数が安定しない。


多分、電気系統の問題だろう。


普通に走るぶんには特に問題がないが、信号待ちではアクセルを空ぶかししているように見える。


まぁ、仕方ないか…。


沙樹子とは、朝9時に新宿駅で待ち合わせた。


沙樹子は、普段よりうるさいエンジン音に大笑いした。


用賀から東名高速に入り、浜名湖を目指す。


秋も深まってきたが、高速の道は目にまぶしい。


俺は、ティアドロップ型のレイバン ドライビンググラスをかける。


「寺尾聡みたい」と、沙樹子は笑った。


楽しい旅になりそうな予感がしていた。


東名を、順調に走る。


途中のサービスエリアで、俺たちは鉄棒にぶら下がったり、シーソーに乗ったりして遊んだ。


子供のように、沙樹子は無邪気だった。


そんな調子で、のんびりとポルシェを走らせた。



俺たちは、浜名湖インターから東名を降り、一般道を走る。


ポルシェの調子も、なんとか落ち着いてきたようだ。


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その宿は、浜名湖の湖畔にあった。


湖を渡ってきた風が、秋を感じさせる。


俺と沙樹子は、部屋のベランダから、夕陽にきらめく湖面を見ていた。


「ねぇ、ひろ…。話があるんだけど…。大事な話」と、沙樹子は言った。


俺は、悪い予感がしていた。


「最近、ちょっと感じるの…。誰か他に好きなひとでもできたのかな?って」


えっ?


俺は、その言葉に愕然としていた。


「最近のひろは、無理しているように見えるの。わたしに対して気を使い過ぎてる。それに…」


「それに…何?」


「いつも何か他のことを考えてる。分かるのよ、それが…」


沙樹子の言葉が、俺の胸に突き刺さる。


沙樹子は、ちゃんと気付いていたのだ。


沙樹子を失いたくないから、栞への思いを断ち切った。


そのつもりだった。


しかし、沙樹子を深く愛そうとしたのは、単に栞を忘れるためにだったのかもしれない。


俺は、そのとき気付いたのだ。


俺自身の沙樹子への気持ちの変化と、沙樹子の俺に対する気持ちの変化に。


ひとの気持ちなんて、一瞬にして変わる。


そんなもんだ。


俺は、それでも沙樹子の考えを全て否定した。


沙樹子は、一応は納得したように見える。


しかし、すでに俺と沙樹子との関係は、さっきまでとは違ってしまっていたのだ。