32


沙樹子はいま、何をやっているんだろう?


俺は沙樹を抱きしめながら、そんなことを考えている。


俺はいま、自分が誰のことが一番大切なのかが良く分かっていた。


でも…。


沙樹が、甘えた声で言う。


「ねぇ…キスして…」


俺は、沙樹の潤んだ瞳に吸い込まれそうだった。


沙樹を恨んだ日々は、決して短くはない。


でもそれは、裏を返せば、それだけ沙樹のことを愛していた、ということだ。


沙樹を抱くことは、夢だった。


決して叶わないだろうと諦め、妄想した夢。


いま沙樹は、裸同然の姿で俺の腕のなかにいる。


俺のなかの悪魔がいま、目を覚まそうとしていた。


33


濡れた沙樹の髪に香る、甘い香り。


懐かしい、沙樹の匂いがする。


俺の心臓は、いままでになく激しく脈を打つ。


俺は沙樹を強く抱きしめ、耳元でささやく。


「ずっと、忘れようとしてたのに…」


沙樹が、顔を上げる。


「忘れさせて…」


ふたりの唇が、重なる。


懐かしい、沙樹の感触…。


あの頃の沙樹が、蘇る。


もう止められなかった。



すべてが終わったあと、俺は後悔していた。


抱かないほうが良かったのに…。


叶わないはずの夢が、叶ってしまった。


叶わないほうがいい夢もあるのだと、そのとき初めて知った。


すべては、幻だったのだ。


泣き疲れて眠る沙樹にメモを残し、俺は部屋をあとにする。


「ごめん、沙樹…」


俺は、泣いている女を抱くことは、もう二度とないだろう。


そして、こう誓った。


俺は、もう愛する女しか抱かない、と。


俺は、重い足取りで新宿駅へと歩く。


見上げた東の空が、少しずつ明るくなっていた。