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沙樹は、フフッと笑ってこう言った。
「もういいよ。昔の話だもん…わたし、シャワー浴びてくるね」
沙樹は、バスルームに消えた。
俺は、ホテルの窓から新宿の夜景を見下ろしながら、混乱していた。
マルボロに火を点けながら、考える。
沙樹の態度が急に冷たくなったのは、確かに誕生日のあとからだった。
俺は、沙樹に何を言ったのだろうか…?
マルボロの煙が、やけに目にしみる。
疑問が、頭の中を駆け巡る。
しかし、いまさらそのことを掘り起こしても、何の意味があるというのか?
でも……。
俺は、二本目のマルボロに火を点けた。
窓に、沙樹の姿が写る。
俺に、近づいてくる。
「えっ?」
沙樹は、バスタオル一枚しか身に着けていないようだ。
振り向こうとした俺の背中から、沙樹が抱きついてきた。
「そのまま聞いて、ひろ…。わたし、あなたに謝らなければならないと思っていたの。ずっと…」
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俺は、背中越しに沙樹の体温と柔らかさを感じていた。
あの頃の苦い想い出と、それから当分続いた沙樹への執着が蘇る。
「わたしは、あなたのことが本当に好きだった。だから、あなたと離れることにしたの」
俺には、理解不能の言葉だった。
だったら、なぜあんなことを…?
「あなたは東京へ夢を持って出て行こうとしていた。わたしも神戸に行くつもりだった。一緒に居られなくなるのは、あのときもう分かっていたから…」
俺は、何も言えなかった。
「今ならそれが間違いだったって分かるの。だからあなたに謝らなくてはならないと思った…」
俺は、大きく息をついてこう言った。
「…もういいよ…」
沙樹は、俺の背中にしがみつくようにしている。
そして、振り絞るようにこう言った。
「わたしね、もうどうしたらいいのか分からないの。いまさらひろに逢って、こんなこと言っても、どうしようもないって、分かってる。でも、どうしても言いたかった…」
俺は、ゆっくりと言葉を選びながら言う。
「それはさ、沙樹が一歩踏み出すために必要だから、だよ。沙樹は自分でも分かってる。だから行動を起こしたんだよ…」
「…そうなの…かな?」と、沙樹はつぶやく。
俺は、ゆっくり振り返って沙樹を抱きしめ、やさしく髪をなでる。
そして、こう言った。
「今日は、思いっきり泣けばいいじゃん…」
そう言いながらも俺は、そのとき沙樹子のことを考えていた。