前回の日記で、サザンオールスターズのコンサートに行ったことに少しだけ触れました。
そこで聴いた曲や、曲にまつわるささやかな思い出は、つかの間の充実した時間を自分に与えてくれました。
でもよくよく振り返ってみると、自分が最も心を揺さぶられたのは、単純に "人が多かったこと" だったのかもしれないとふと思い当たったので、今日もしょうもない日記を書いてみます。



京セラドームには、正確な数はわかりませんが、少なく見積もっても3万人の観客がいたでしょうか。3万人、あるいは5万人もの観客がいたかもしれません。
ちょっとした町の人口が一同に会している光景というのは壮観なものがあります。
その数だけの人生があり、当たり前のように何万通りの幸福や不幸があることを想うと頭がくらくらしたりもします。中学生みたいな感想ですが……。


まあ、とにかくそんな数の人間を目の当たりにして、ギャンブル依存性であるという状況は、取るに足りない些事なのではないかと感じたり、はたまた次の瞬間には、"いや、周りの人はみんな自分よりちゃんとしていて自分は自分が考えているより相当クズなんじゃないか"と感じたりしたのです。
自分のモノサシや立ち位置がにわかに曖昧になり、そのことに少なからず心を揺さぶられたというわけです。





"幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う"





というトルストイの有名な文章が京セラドームにて思い浮かびましたが、ギャンブル依存性というのもまた、それぞれ違う不幸のひとつにしか過ぎないのでしょう。
でも、その不幸の最中にいる者にとって、幸福か不幸かなどといった俯瞰的な物の見方など何の救いにもなりません。目の前の状況が過ぎ去ってくれるのを、ただただ切実に願っているというのが正直なところなのだと思います。



自分の場合、不幸なのは自分ではありません。
ギャンブル依存性の最大の不幸は家族や周りの人間を巻き込んでしまうことだと思うからです。
今現在も、大切な家族に言葉で言い尽くし難い心労をかけ続けていることを思うと、いくら後悔しても足りません。
なんらかの事故にあったとか、不可避の事態に遭遇したことで呼びこんだ不幸とは違い、ギャンブル依存性というのは当の本人次第でいくらでも回避できる余地がある(あった)のですから。



ウェブ上に溢れている、俯瞰的な見地からのギャンブル依存症対策もいいかもしれません。もっともらしい言葉を反省の弁とするのもとりあえずはいいかもしれません。
しかし、自分がちゃんと地に足をつけて生活しようとしている行動をともなわないと、余計に家族を不幸にしてしまいます。
自分はうすっぺらに禁ギャンブルを考えていないか、ふたたび自問しようと思います。




トルストイと同じロシアの作家、ドストエフスキーにも幸福にまつわる有名な言葉があります。
"人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである"というものです。
足るを知ると言えるのかもしれません。



ドストエフスキーにはギャンブルで借金ばかり作っていたという逸話もあるそうですが、おこがましくも自分の場合に置きかえてみます。





仕事や住む家があり、大切な家族がいる
それだけで充分に幸せなことなのに、どうしてこうもギャンブルに惹かれてしまうのか……。




ちなみに、京セラドーム繋がりで、京セラの創業者でもある稲盛和夫の母校に少しだけ自分も通っていました。その校訓をふしぎと今でも覚えています。
強く 美しく 正しく
眩しすぎて目が眩みます……。