9月24日は、西郷隆盛の命日だそうで、1877年(明治10年)、49歳で、鹿児島市の城山にて亡くなったそうです。
歴史の授業や歴史小説、大河ドラマなどで、皆さん、西郷隆盛など明治維新前後のお話はいろいろと知ってらっしゃる事と思います😊
大河ドラマの『篤姫』や『龍馬伝』をご覧になった方々も多いと思います。
他にも映画やTVでも、今までにも色々とありますね
鹿児島では、西郷隆盛の命日前日の秋分の日に、「せごどんのえんこ」(西郷さんの遠行)という、西郷さんゆかりの地をあちらこちら歩いて訪ねる行事があります😊
西郷隆盛 野屋敷跡
野屋敷は、西郷隆盛が青年時代(別名:吉兵衛、吉之助)、困窮した家計を助けるために、開墾して里芋や甘藷(サツマイモ)などを植えた農地がまわりにあり、西郷がよく一人で滞留していたところでした。(屋敷といえば広大な邸宅を想像しますが、6畳、3畳、4畳、2畳(いろり部屋)の田の字形の農事小屋でした。)
明治6年遣韓使節派遣がかなえられず、帰郷した西郷隆盛は、武屋敷に住んでいましたが、面会人を避けるため、暫し利用していました。明治10年西郷が「西南の役」に出陣したあと、妻(いと)が11人の家族と生活していた場所でもあります。
この屋敷跡にある山モモや大名竹は西郷が植えたともいわれています。
9月24日、イト夫人と家族はこの農事小屋から、城山から煙が立ち上るのを目にして城山陥落を知ったと伝えられています。
武町にある、西郷隆盛 屋敷跡の公園と、そこにある、西郷隆盛が使っていた井戸
武屋敷は、西郷が朝鮮への使節派遣の考えに反対されて一八七三(明治六)年鹿児島に帰ってから、一八七七(明治十)年西南戦争が起こるまでの四年間を暮らしたところです。屋敷は、約三千六百平方メートル(千百坪)で、建物は縁の高い御殿造りで部屋数も多く、庭にあった大きな松の木が訪れる人の目標になっていました。ここでの西郷のくらしは、まさに晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励む一方、県内各地で狩猟や湯治を楽しむなど、″武村の吉″としてゆうゆう自適の生活を送っていました。また士族の青少年の教育のため私学校を創設したり、屋敷に沖永良部島で知り合った川口雪篷を同居させ、近くの子弟の教育にあたらせました。
屋敷は西南戦争で焼け、一八八○(明治十三)年、弟の従道が再建しましたが、現在は公園となり、当時の井戸だけが残っています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)





鹿児島市の共研公園にある、
西郷隆盛宅地跡
西郷隆盛誕生地
小松帯刀像
大久保利通像














