梅雨明けした、鹿児島は、今朝は、空気がからっとした感じでしたが、日射しは強く、青空が広がっています
今日の青空
昨日、2014年7月17日 19時~ かごしま県民交流センター 中ホールにて、『さまざまな命の物語』野田かつひこコンサートがありました
女性合唱団『コールはらら』の団員のひとりとして、参加しました
オープニングで、女性合唱団『コールはらら』が、『お花がわらった』、『夕焼け小焼け』、『あなたにありがとう』の3曲を、演奏し、野田かつひこさんの演奏、共演者の尺八やバイオリンの方々といっしょの演奏、尺八の演奏、バイオリンの演奏、、、、と、いろいろなお話があり、最後のアンコール曲として、野田さんの演奏とともに一緒に、野田かつひこさん作詞作曲の『わらしこ』と『ふしぎ』を演奏しました
暖かい優しい、お人柄で、包み込む様な、素晴らしい曲ばかりでした
口ずさみやすい曲が多く、いっしょに掛け合いの歌もあって、楽しく、あっという間に、時間が過ぎていきました
共演者の、尺八奏者、 山崎箜山さん、ヴァイオリン奏者、藤松純子さん、素晴らしかったです
自ら作詞作曲された曲の数々、、、その曲が生まれた経緯のお話をされながら、命について、戦争と平和について、お互いを思いやることについて、夢を持ち続けることについて、とても深いお話をされました
心に響いた曲ばかりでしたが、特に、平和について、歌った曲、2曲が、色々と考えさせられました。。。
日露戦争の時に、ロシアの軍艦から脱出した、ロシア兵143名が、対馬に上陸してきた時に、島の方々は、手当をし、世話をし、食料や水を提供し、ケガ人を医者にみせ、家に泊めたそうです
ロシア兵の方々も、とても感謝して、翌日、救護船へ乗り移る時に、4隻のボートに乗り込み、オールを垂直に立てて、感謝を表したそうです
それに因んだ曲『夢のあとさき』を作られて、演奏され、人間愛を歌われました
「この1905年の出来事をそこの地区の人たちはどのような形で後生まで残していくべきかと考え、 7年後の1912年に記念碑を建立しております。それがこの碑です。実は漢字四文字で「恩海義喬」 という言葉が記されています。なかなか説明しづらい部分がありますが、恵みの「海」に「恩」 ですね、それに「義は喬し」という言葉だったと思います。それからロシアの方では、この対馬 海戦の家族会というのがサンクトペテルブルクで毎年行われていると聞いております。」と書かれたページをみつけました
もう1曲は、戦艦大和の艦長、伊藤整一海軍大将に因んだ「大和桜」という、曲です
山本五十六に最も信頼された伊藤整一は、戦艦大和の司令長官として、戦艦大和に乗り、最期は、大和とともに沈んだそうです。。。
息子は、沖縄へ出撃した特攻機で、後を追うように、出撃し、亡くなります。。。
二人を追うように娘を残して、整一の妻も、亡くなったそうです。。。
昭和20年4月7日から翌年9月までに、ひとつの家族の上に、次々と悲劇が襲いました。。。
でも、伊藤整一が植えた桜は、今もその命日を忘れずに満開となっているそうです。。。
戦艦大和の艦長は、知米派として知られ、高い視点から、未来に繋ぐ若者の命を大事に思い、軍の中で、ずっとご努力されたそうです。。。
戦艦「大和」の第二艦隊司令長官伊藤整一は、組織の責任あるリーダーとして沖縄特攻作戦中に二度も若者たちの命を戦後に生かす決断をしている。
四月五日、だしぬけに降ってわいた連合艦隊司令部からの沖縄海上特攻の命令に、伊藤長官は、当初激しく反対した。すでに制空権、制海権も奪われた今、敵の優れたレーダー網や潜水艦攻撃の前に出撃することの無謀を主張して抵抗した。何よりも「大和」の三千名余の将兵をはじめ第二艦隊全十隻の六千名余の命がむざむざと失われることに反対の理由があった。。。。。
この春の桜の開花は、東京では平年より十日も早く三月十六日に発表となった。去年は三十一日だったので二週間も早かったことになる。
東京・杉並の大宮八幡宮の近く、人見街道沿いに一軒の広い庭の家がある。屋敷からは、二本のソメイヨシノが、通りに向かって枝を太く幾重にも伸ばしている。戦時中、杉並の大空襲にも焼け残った樹齢八十年を超える親桜。もう一本は戦後にその根っこから芽が生えた蘖(ひこばえ)の子桜だ。
拙著『四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』の中で、「父子桜」あるいは「伊藤桜」と名付けた桜だが、不思議なことに毎年、四月七日頃に満開となるのである。今年の「父子桜」の開花も、いつもの年より早まったが、この桜を植えて逝った人物の四月七日の命日には、まだ花びらが散りがたく名残を惜しんでいた。
「父子桜」は、昭和二十年(一九四五年)四月七日、戦艦「大和」と運命をともにした伊藤整一中将(戦死後大将)が、戦争前に植えた桜である。庭いじりが大好きだった伊藤は屋敷に四季の草花を絶やさなかった。~四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』著:中田整一
未来に引き継がれる「命の転生」より引用
大きな時代のうねりの中で、あちらこちらで、平和のために、ご努力、模索された方々が、いらっしゃるのですね。。。。。
桜の花に託して、平和のありがたさを考える、、、、
朝ドラ『花子とアン』に、白蓮と駆け落ちする、宮本龍一のモデル、宮崎 龍介は、実は、下記のような方だそうです
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友・宮崎滔天の長男。
。。。。。。
1937年(昭和12年)7月、近衛文麿首相の密使として、蒋介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍は憲兵隊を用いて神戸港で龍介を逮捕した。この経緯については諸説があり詳細は不明である。
。。。。。~ウィキペディアからの引用ですが、一応、リンクしておきます
和平を模索された方々、戦争が始まりそうな時、そして、戦争のさなかも、多くいらっしゃるのではと思いました。。。。。
野田かつひこさんについて、詳しくは、ウィキペディアにリンクしておきますので、よろしければ、どうぞクリックされてくださいね

野田かつひこさんの演奏された曲の中から、『一輪の花』と『わらしこ』
~とても、素晴らしい、心の深いところに届いてくる曲です
リハーサルが、16時からありました
演奏会が終わり、心の中に、野田かつひこさんの曲を響かせながら。。。
街角に咲いていた、デュランタ宝塚
花言葉は、「あなたを見守る」「歓迎」
名前は、ローマ法王の侍医でもあった植物学者のデュランテスに由来する。
原産地は、 メキシコ・西インド諸島原産。

今日の青空

昨日、2014年7月17日 19時~ かごしま県民交流センター 中ホールにて、『さまざまな命の物語』野田かつひこコンサートがありました

女性合唱団『コールはらら』の団員のひとりとして、参加しました

オープニングで、女性合唱団『コールはらら』が、『お花がわらった』、『夕焼け小焼け』、『あなたにありがとう』の3曲を、演奏し、野田かつひこさんの演奏、共演者の尺八やバイオリンの方々といっしょの演奏、尺八の演奏、バイオリンの演奏、、、、と、いろいろなお話があり、最後のアンコール曲として、野田さんの演奏とともに一緒に、野田かつひこさん作詞作曲の『わらしこ』と『ふしぎ』を演奏しました

暖かい優しい、お人柄で、包み込む様な、素晴らしい曲ばかりでした

口ずさみやすい曲が多く、いっしょに掛け合いの歌もあって、楽しく、あっという間に、時間が過ぎていきました

共演者の、尺八奏者、 山崎箜山さん、ヴァイオリン奏者、藤松純子さん、素晴らしかったです

自ら作詞作曲された曲の数々、、、その曲が生まれた経緯のお話をされながら、命について、戦争と平和について、お互いを思いやることについて、夢を持ち続けることについて、とても深いお話をされました

心に響いた曲ばかりでしたが、特に、平和について、歌った曲、2曲が、色々と考えさせられました。。。
日露戦争の時に、ロシアの軍艦から脱出した、ロシア兵143名が、対馬に上陸してきた時に、島の方々は、手当をし、世話をし、食料や水を提供し、ケガ人を医者にみせ、家に泊めたそうです

ロシア兵の方々も、とても感謝して、翌日、救護船へ乗り移る時に、4隻のボートに乗り込み、オールを垂直に立てて、感謝を表したそうです

それに因んだ曲『夢のあとさき』を作られて、演奏され、人間愛を歌われました

「この1905年の出来事をそこの地区の人たちはどのような形で後生まで残していくべきかと考え、 7年後の1912年に記念碑を建立しております。それがこの碑です。実は漢字四文字で「恩海義喬」 という言葉が記されています。なかなか説明しづらい部分がありますが、恵みの「海」に「恩」 ですね、それに「義は喬し」という言葉だったと思います。それからロシアの方では、この対馬 海戦の家族会というのがサンクトペテルブルクで毎年行われていると聞いております。」と書かれたページをみつけました

もう1曲は、戦艦大和の艦長、伊藤整一海軍大将に因んだ「大和桜」という、曲です

山本五十六に最も信頼された伊藤整一は、戦艦大和の司令長官として、戦艦大和に乗り、最期は、大和とともに沈んだそうです。。。
息子は、沖縄へ出撃した特攻機で、後を追うように、出撃し、亡くなります。。。
二人を追うように娘を残して、整一の妻も、亡くなったそうです。。。
昭和20年4月7日から翌年9月までに、ひとつの家族の上に、次々と悲劇が襲いました。。。
でも、伊藤整一が植えた桜は、今もその命日を忘れずに満開となっているそうです。。。
戦艦大和の艦長は、知米派として知られ、高い視点から、未来に繋ぐ若者の命を大事に思い、軍の中で、ずっとご努力されたそうです。。。
戦艦「大和」の第二艦隊司令長官伊藤整一は、組織の責任あるリーダーとして沖縄特攻作戦中に二度も若者たちの命を戦後に生かす決断をしている。
四月五日、だしぬけに降ってわいた連合艦隊司令部からの沖縄海上特攻の命令に、伊藤長官は、当初激しく反対した。すでに制空権、制海権も奪われた今、敵の優れたレーダー網や潜水艦攻撃の前に出撃することの無謀を主張して抵抗した。何よりも「大和」の三千名余の将兵をはじめ第二艦隊全十隻の六千名余の命がむざむざと失われることに反対の理由があった。。。。。
この春の桜の開花は、東京では平年より十日も早く三月十六日に発表となった。去年は三十一日だったので二週間も早かったことになる。
東京・杉並の大宮八幡宮の近く、人見街道沿いに一軒の広い庭の家がある。屋敷からは、二本のソメイヨシノが、通りに向かって枝を太く幾重にも伸ばしている。戦時中、杉並の大空襲にも焼け残った樹齢八十年を超える親桜。もう一本は戦後にその根っこから芽が生えた蘖(ひこばえ)の子桜だ。
拙著『四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』の中で、「父子桜」あるいは「伊藤桜」と名付けた桜だが、不思議なことに毎年、四月七日頃に満開となるのである。今年の「父子桜」の開花も、いつもの年より早まったが、この桜を植えて逝った人物の四月七日の命日には、まだ花びらが散りがたく名残を惜しんでいた。
「父子桜」は、昭和二十年(一九四五年)四月七日、戦艦「大和」と運命をともにした伊藤整一中将(戦死後大将)が、戦争前に植えた桜である。庭いじりが大好きだった伊藤は屋敷に四季の草花を絶やさなかった。~四月七日の桜 戦艦「大和」と伊藤整一の最期』著:中田整一
未来に引き継がれる「命の転生」より引用
大きな時代のうねりの中で、あちらこちらで、平和のために、ご努力、模索された方々が、いらっしゃるのですね。。。。。
桜の花に託して、平和のありがたさを考える、、、、
朝ドラ『花子とアン』に、白蓮と駆け落ちする、宮本龍一のモデル、宮崎 龍介は、実は、下記のような方だそうです

宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友・宮崎滔天の長男。
。。。。。。
1937年(昭和12年)7月、近衛文麿首相の密使として、蒋介石との和平協議のために中国を訪問しようとするが、これに反対する陸軍は憲兵隊を用いて神戸港で龍介を逮捕した。この経緯については諸説があり詳細は不明である。
。。。。。~ウィキペディアからの引用ですが、一応、リンクしておきます

和平を模索された方々、戦争が始まりそうな時、そして、戦争のさなかも、多くいらっしゃるのではと思いました。。。。。
野田かつひこさんについて、詳しくは、ウィキペディアにリンクしておきますので、よろしければ、どうぞクリックされてくださいね

野田かつひこさんの演奏された曲の中から、『一輪の花』と『わらしこ』
~とても、素晴らしい、心の深いところに届いてくる曲です
リハーサルが、16時からありました

演奏会が終わり、心の中に、野田かつひこさんの曲を響かせながら。。。
街角に咲いていた、デュランタ宝塚

花言葉は、「あなたを見守る」「歓迎」
名前は、ローマ法王の侍医でもあった植物学者のデュランテスに由来する。
原産地は、 メキシコ・西インド諸島原産。



