今日は、穏やかな晴れのお天気となり、散歩がてら、『西郷隆盛 武屋敷跡』へ梅の花々を愛でにでかけてみました
白梅は、まだでしたが、濃いピンク色の梅の花々が青空に映えて、綺麗に咲いていました
西郷 武屋敷跡について
武屋敷は、西郷が朝鮮への使節派遣の考えに反対されて一八七三(明治六)年鹿児島に帰ってから、一八七七(明治十)年西南戦争が起こるまでの四年間を暮らしたところです。屋敷は、約三千六百平方メートル(千百坪)で、建物は縁の高い御殿造りで部屋数も多く、庭にあった大きな松の木が訪れる人の目標になっていました。ここでの西郷のくらしは、まさに晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励む一方、県内各地で狩猟や湯治を楽しむなど、″武村の吉″としてゆうゆう自適の生活を送っていました。また士族の青少年の教育のため私学校を創設したり、屋敷に沖永良部島で知り合った川口雪篷を同居させ、近くの子弟の教育にあたらせました。
屋敷は西南戦争で焼け、一八八○(明治十三)年、弟の従道が再建しましたが、現在は公園となり、当時の井戸だけが残っています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)~鹿児島市ホームページより引用
西郷隆盛と庄内出身の菅実秀(すげ・さねひで)の会見の像
菅実秀とは。。。
明治元年戊辰戦争が勃発するや軍事掛に任ぜられ、家老松平親懐を助けて庄内藩の指導に当たり、降伏後は戦後処理に敏腕を振るう。このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたため、以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。明治2年中老に任ぜられ、明治3年大泉藩(改称)の権大参事となった。明治4年、西郷隆盛と初めて東京で会う。酒田県が成立すると大参事。ワッパ騒動により引責辞任。西南戦争後、「南洲翁遺訓」を刊行。
公園となっていて、遊具も置かれています
サザンカの花々も咲いていました
みけにゃん、お散歩を楽しんだり、穏やかな冬の一日、相変わらず、まったりゆったり、今日も猫的快適生活エンジョイ中ですにゃん


白梅は、まだでしたが、濃いピンク色の梅の花々が青空に映えて、綺麗に咲いていました

西郷 武屋敷跡について
武屋敷は、西郷が朝鮮への使節派遣の考えに反対されて一八七三(明治六)年鹿児島に帰ってから、一八七七(明治十)年西南戦争が起こるまでの四年間を暮らしたところです。屋敷は、約三千六百平方メートル(千百坪)で、建物は縁の高い御殿造りで部屋数も多く、庭にあった大きな松の木が訪れる人の目標になっていました。ここでの西郷のくらしは、まさに晴耕雨読の生活で、吉野や西別府で農耕に励む一方、県内各地で狩猟や湯治を楽しむなど、″武村の吉″としてゆうゆう自適の生活を送っていました。また士族の青少年の教育のため私学校を創設したり、屋敷に沖永良部島で知り合った川口雪篷を同居させ、近くの子弟の教育にあたらせました。
屋敷は西南戦争で焼け、一八八○(明治十三)年、弟の従道が再建しましたが、現在は公園となり、当時の井戸だけが残っています。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)~鹿児島市ホームページより引用
西郷隆盛と庄内出身の菅実秀(すげ・さねひで)の会見の像
菅実秀とは。。。
明治元年戊辰戦争が勃発するや軍事掛に任ぜられ、家老松平親懐を助けて庄内藩の指導に当たり、降伏後は戦後処理に敏腕を振るう。このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたため、以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。明治2年中老に任ぜられ、明治3年大泉藩(改称)の権大参事となった。明治4年、西郷隆盛と初めて東京で会う。酒田県が成立すると大参事。ワッパ騒動により引責辞任。西南戦争後、「南洲翁遺訓」を刊行。
公園となっていて、遊具も置かれています

サザンカの花々も咲いていました

みけにゃん、お散歩を楽しんだり、穏やかな冬の一日、相変わらず、まったりゆったり、今日も猫的快適生活エンジョイ中ですにゃん
















