毎年行われる、伝統行事は、全国に多くありますが、鹿児島にも多くあり、多くの方々が参加する行事のひとつとして、鹿児島三大行事のひとつ、『妙円寺詣り行事大会☆妙円寺詣りフェスタ』があります
2011年に、でかけましたが、今年は、10月26日&27日に開催予定だそうです
そこで、2011年の様子を再アップします
歴史の重さを感じ、伝統行事を引き継いで行く,地元の方々のご努力を感じ、迫力のある様々な太鼓踊や、小学生の歌声など、身近に観る事ができて、素晴らしいと思いました
2013年10月26日(土)~10月27日(日)
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにおける島津義弘公の遺徳をしのぶ。鹿児島市の照国神社から約20kmの道のりを歩き、徳重神社に参詣する。
時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。 当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から多くの人が訪れます。~日置市観光協会ホームページにリンクしています
徳重神社
ひおきPRレディーズ
小学生の方々による、妙円寺詣りの歌 22番まで歌いました
妙円寺詣りの歌:
1、明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて
嵐はさっと吹くき渡り 万馬いななく声高し
2、銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ
天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原
3、石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢
占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり
4、名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや
我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす
5、東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ
二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や
6、戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川
松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき
7、前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど
精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう
8、蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく
西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色
9、家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと
関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる
10、かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに
勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ
11、払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり
剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん
12、運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい
奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます
13、譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と
鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう
14、篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮
風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや
15、薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂
たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
16、骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を
見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し
17、賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて
兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て
18、欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら
くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し
19、牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして
駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う
20、献策遂に容れられず 六十余年の生涯に
始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に
21、興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし
壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり
22、無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん
仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや
吉利北区太鼓踊り
伊作太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財)
伊作田踊り(江戸時代に始まったと伝えられていて、伊作田兵部道材公の慰霊、農家の五穀豊穣と漁師の大漁祈願、更に集落の親和のために、3年毎に踊り継がれています。道材公は伊作田を領有した南北朝時代の武将で、北朝方に破れ非業の死を遂げたとされています。)
大田太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財)
妙円寺についての解説
薩摩の戦国大名、島津義弘(戒名「妙円寺殿松齢自貞庵主」)の菩提寺である。禅寺であるため妙円禅寺、また妙圓寺とも記す。1390年(元中7年)、当時この地の支配者であった伊集院忠国の11男である石屋真梁によって、長州の守護大名であった大内義弘の息女の供養の為、建立された。ちなみに石屋真梁は1394年(応永元年)に島津元久の命で福昌寺の開山となった人物でもある。石屋真梁の兄・南仲は広済寺の開山となっており、妙円寺は福昌寺の兄寺にあたる。毎年行われる節分祭は県内有数の信者数を誇っている。六百年の歴史があり、永平寺と總持寺とを両本山に持つ、曹洞宗の寺院である。「妙円寺詣り」の妙円寺とは本来この寺のことをさす。
歴代島津氏当主の尊崇を受けてきたが、島津義弘は特にこの寺に対する帰依が厚く、義弘とその妻の墓所となったために薩摩藩の中でも有数の禅寺となった。しかし明治2年の廃仏毀釈により破壊され、当時の住職は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年には早くも地元の支援者によりかつての寺地の近隣に再興され、徳重神社の所有となった宝物の返還を求めたが、結局達せられないまま現在に至っている[3]。復興後の妙円寺は600坪程に縮小されたが、義弘の位牌はもちろん、境内には昭和11年に公爵(島津家第30代当主)島津忠重の寄贈した石屋眞梁禅師の碑があり、碑銘は陸軍大将町田経宇によって書かれている。
ウィキペディアより
徳重神社についての解説
精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)(島津義弘公)を祀り、祭神の出家姿の木像を神体とする。
明治2年(1869年)に廃仏毀釈で廃寺となった祭神の菩提寺である妙円寺の跡地に同4年に創祀された神社である。なお、妙円寺はこの徳重神社の西側に復興されている。
妙円寺詣り(毎年10月第4日曜日)
かつて薩摩藩では妙円寺と共に、島津忠良の菩提寺である日新寺と島津歳久の菩提寺である心岳寺とにおいて、それぞれの命日に参る習慣があった。現在、日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、「妙円寺詣り」は現在も盛んに行われている。また、「妙円寺詣り」と称しながら徳重神社にて行われている「妙円寺詣り」について、妙円寺は主催者の日置市などに対し名称を「徳重神社詣り」に変更するよう要望している。現在では島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して10月末頃に行われる。 ウィキペディアより

2011年に、でかけましたが、今年は、10月26日&27日に開催予定だそうです

そこで、2011年の様子を再アップします

歴史の重さを感じ、伝統行事を引き継いで行く,地元の方々のご努力を感じ、迫力のある様々な太鼓踊や、小学生の歌声など、身近に観る事ができて、素晴らしいと思いました

2013年10月26日(土)~10月27日(日)
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いにおける島津義弘公の遺徳をしのぶ。鹿児島市の照国神社から約20kmの道のりを歩き、徳重神社に参詣する。
時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。 当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から多くの人が訪れます。~日置市観光協会ホームページにリンクしています

徳重神社
ひおきPRレディーズ
小学生の方々による、妙円寺詣りの歌 22番まで歌いました

妙円寺詣りの歌:
1、明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて
嵐はさっと吹くき渡り 万馬いななく声高し
2、銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ
天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原
3、石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢
占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり
4、名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや
我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす
5、東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ
二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や
6、戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川
松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき
7、前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど
精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう
8、蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく
西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色
9、家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと
関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる
10、かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに
勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ
11、払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり
剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん
12、運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい
奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます
13、譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と
鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう
14、篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮
風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや
15、薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂
たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
16、骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を
見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し
17、賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて
兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て
18、欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら
くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し
19、牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして
駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う
20、献策遂に容れられず 六十余年の生涯に
始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に
21、興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし
壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり
22、無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん
仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや
吉利北区太鼓踊り
伊作太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財)
伊作田踊り(江戸時代に始まったと伝えられていて、伊作田兵部道材公の慰霊、農家の五穀豊穣と漁師の大漁祈願、更に集落の親和のために、3年毎に踊り継がれています。道材公は伊作田を領有した南北朝時代の武将で、北朝方に破れ非業の死を遂げたとされています。)
大田太鼓踊り(鹿児島県指定無形文化財)
妙円寺についての解説
薩摩の戦国大名、島津義弘(戒名「妙円寺殿松齢自貞庵主」)の菩提寺である。禅寺であるため妙円禅寺、また妙圓寺とも記す。1390年(元中7年)、当時この地の支配者であった伊集院忠国の11男である石屋真梁によって、長州の守護大名であった大内義弘の息女の供養の為、建立された。ちなみに石屋真梁は1394年(応永元年)に島津元久の命で福昌寺の開山となった人物でもある。石屋真梁の兄・南仲は広済寺の開山となっており、妙円寺は福昌寺の兄寺にあたる。毎年行われる節分祭は県内有数の信者数を誇っている。六百年の歴史があり、永平寺と總持寺とを両本山に持つ、曹洞宗の寺院である。「妙円寺詣り」の妙円寺とは本来この寺のことをさす。
歴代島津氏当主の尊崇を受けてきたが、島津義弘は特にこの寺に対する帰依が厚く、義弘とその妻の墓所となったために薩摩藩の中でも有数の禅寺となった。しかし明治2年の廃仏毀釈により破壊され、当時の住職は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年には早くも地元の支援者によりかつての寺地の近隣に再興され、徳重神社の所有となった宝物の返還を求めたが、結局達せられないまま現在に至っている[3]。復興後の妙円寺は600坪程に縮小されたが、義弘の位牌はもちろん、境内には昭和11年に公爵(島津家第30代当主)島津忠重の寄贈した石屋眞梁禅師の碑があり、碑銘は陸軍大将町田経宇によって書かれている。
ウィキペディアより
徳重神社についての解説
精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)(島津義弘公)を祀り、祭神の出家姿の木像を神体とする。
明治2年(1869年)に廃仏毀釈で廃寺となった祭神の菩提寺である妙円寺の跡地に同4年に創祀された神社である。なお、妙円寺はこの徳重神社の西側に復興されている。
妙円寺詣り(毎年10月第4日曜日)
かつて薩摩藩では妙円寺と共に、島津忠良の菩提寺である日新寺と島津歳久の菩提寺である心岳寺とにおいて、それぞれの命日に参る習慣があった。現在、日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、「妙円寺詣り」は現在も盛んに行われている。また、「妙円寺詣り」と称しながら徳重神社にて行われている「妙円寺詣り」について、妙円寺は主催者の日置市などに対し名称を「徳重神社詣り」に変更するよう要望している。現在では島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して10月末頃に行われる。 ウィキペディアより












