夏休みも8月に入りましたね~
朝早く、公園でラジオ体操をする子供たち&大人たち、気持ちが良いですよね~
今日は、猫ちゃんではなく、わんちゃんの話題をしようと思います
私は、子供の頃、スピッツを飼っていました
犬も大好きで、小型犬も大型犬も好きです
西郷隆盛の飼い犬の
ツンちゃんとカヤちゃん
について
西郷隆盛は、犬好きだったそうで、十数頭を連れて、狩りにでかけることもあったそうです
『愛犬家だった西郷隆盛』に興味深い記事がありますので、リンクしておきます
東京のハチ公像を制作した安藤照氏作の西郷隆盛像と愛犬の『カヤ』ちゃん
上野の西郷隆盛像の隣にいる愛犬は、『ツン』ちゃんだそうです
『ツン』ちゃんの像は、薩摩川内市東郷町の藤川天神にもあるそうです
もともと、ツンちゃんは、東郷町の農家で飼われていた、薩摩犬だったそうです。
「明治7年(1874年)か8年頃、西郷隆盛が薩摩川内市東郷町の藤川天神を 参拝して いる途中、境内で近所の「ツン」という名前の薩摩犬と出会いました。 このツンは、藤川 牧野の前田善兵衛という人の飼い犬でした。 イノシシ狩りが得意な薩摩犬ですが、ツン は 、よく、途中で逃げ帰っていたそうです。
それでもとてもかわいがって、西南戦争にも連れて行ったそうですが、
高城の山々は、「ツン」の生まれた東郷・藤川の西部域であり(約4Kmほどの距離)「ツン」は度々、狩りの途中で藤川に逃げ帰ったと伝わりますが、ある時、西郷隆盛は高城の本町(麓)に親しかった福徳さん宅を訪れて、犬を預けて帰ります。
それは西郷軍が熊本に進発する前のことであって、この後、西郷は城山で自刃して、ついに犬をつれて帰られることもなく、犬は福徳さん宅で飼われていて、この家で死亡しています。
福徳さんたちは西郷の犬を手厚く葬り墓を建ててやり、この墓が”西郷ドンの犬の墓”として存在しています。」という記事がありました
皆、鹿児島県原産の、薩摩犬という種類の犬だそうです
もともとの薩摩犬の先祖は、甑山犬(こしきやまいぬ)だそうで、日本の鹿児島県の甑島列島原産の日本犬の一種だそうですが、現在は絶滅寸前か絶滅状態であるといわれているそうです
西郷隆盛の愛犬『ツン』の像
東京都の上野恩賜公園の西郷隆盛像の横にいる犬は、「ツン」と言う名前の薩摩犬である。このツンの銅像が、菅原神社(藤川天神)参道脇にある。ツンは元は現在の原地区(県道46号線沿い)の百姓の家にて飼われていた犬でありこの藤川天神で馬1頭と引き替えに西郷に譲渡された。この銅像は中村晋也の作で、平成2年(1990年)に除幕された。~ウィキペディアより
天璋院篤姫も、愛犬家であり、結婚前には狆(ちん)を多数飼っていたそうですが、夫の家定が、犬嫌いだったため大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていたそうです
その猫の費用、一年間で25両、かかったそうです
猫のお世話は、もちろんご自分でされたのではなく、大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪にあたる大岡ませ子はじめ、3人の方々が担当していたそうです
詳しくは、以前、ブログでアップした記事にリンクしておきますね
ひこにゃん☆6歳のお誕生日おめでとう!♪由来☆篤姫の飼い猫☆さとひめ♪由来☆みけにゃん♪
わんちゃんつながりで、「忠犬ハチ公」について
昨年の秋、でかけた、鹿児島市立美術館の2階で、『ハチ公』をみつけました
市立美術館には、何回か訪れているのですが、、、、今回,初めて、気付いて、驚きましたが、安藤照は、鹿児島県出身なので、そういう縁かしら~と思ったりしました。。。
今、渋谷にあるハチ公は、2代目だそうで、その原型の石膏像の『ハチ公』が、ここ鹿児島市の市立美術館にあります

作者は、1代目のハチ公銅像の作者、安藤照の息子の、安藤士です
ウィキペディアからですが、こんな経緯があったそうです
当初の銅像
新聞報道によって「忠犬ハチ公」が広く知られるようになった翌年である1933年(昭和8年)ごろ、ハチ公の美談に感動した帝展彫刻審査委員も務める彫塑家・安藤照は、かねてより知り合いであった斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝えた。
この結果、日本犬保存会からの依頼による安藤照作のハチ公像が作成されることとなり、故主の死後、1927年(昭和2年)からハチの飼い主となっていた小林菊三郎はモデルとなるハチを連れて代々木富ヶ谷の自宅から初台にある安藤のアトリエまで毎日通った。
1934年(昭和9年)1月には「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作られて、銅像建設の募金が始まった。日本犬保存会が発起した資金集めには、鉄道諸官庁も後援した。その後、同年4月21日には渋谷駅前に安藤照によるハチ公像が設置され、盛大に行われた銅像の除幕式にはハチ自身と300人もの著名人が参加した。生存中に自らの像が作成・設置されたハチであったが、除幕式の翌年、1935年(昭和10年)3月に死亡した。
この1934年(昭和9年)に設置されたハチ公の銅像は大東亜戦争の金属供出として1944年(昭和19年)に撤去されたが、実際に溶解されたのは日本が無条件降伏して終戦を迎える前日、1945年(昭和20年)8月14日のことだった。鉄道省浜松工機部(当時)で溶解されたハチ公像は機関車の部品となり、東海道線を走ることになった。
現在の銅像
大東亜戦争中の金属供出によって失われた忠犬ハチ公像であったが、終戦後の1948年(昭和23年)8月、初めの忠犬ハチ公像の制作者であった安藤照の息子、安藤士の制作によって再建された。
安藤照は、東京大空襲で、亡くなりました。
敗戦後の日本は当時、いまだ連合国軍の占領下にあったものの、忠犬ハチ公の物語は大戦前から外国にも紹介されて知られており、再建にあたっては連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の愛犬家有志も有形無形の力となったという。
この再建像の除幕式には、GHQの代表が参列、また再建直後の同年8月30日には、来日した ヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れてハチ公の銅像に触れている。外国の著名人によるハチ公像訪問としては他に、映画 『HACHI 約束の犬』に主演したアメリカの俳優、リチャード・ギアが、同映画の宣伝のために渋谷駅前で2009年(平成21年)7月7日に行われたイベント、「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」のためにここを訪れた。ギアはここで、「ついに初めて本当のハチに会えました。今日は本当に幸せで、光栄な気分です」と語り、ハチ公像の首に花輪をかけた。~ウィキペディアより
わんちゃんのハチ公も、ドラマチックな人生、ではなく、わん生を生きましたが、銅像の経緯も色々な事があったのですね
『忠犬ハチ公のおはなし』にリンクしておきますね
ハチ公の飼い主・上野英三郎
明治4(1871)年12月10日生、大正14(1925)年5月21日没
明治28年7月10日帝国大学農科大学農学科卒業、同年同日農業土木及び農具研究のために大学院入学し、明治33年7月10日大学院満期。同年8月東京帝国大学農科大学講師、明治35年3月農科大学助教授。農業土木の研究に従事するかたわら、農商務省兼任技師として耕地整理技術者の養成に尽力された。
大正12年関東大震災後の帝都復興事業には耕地整理の技術が活用され耕地整理技術者が帝都復興を担ったことはあまり知られていない史実の一つである。
わが国における農業土木、農業工学の創始者。明治44年11月東京帝国大学農科大学教授に任じられ農業工学講座担任として農業土木学科創設のために奔走、時の農学部長古在由直教授の助言を受け農学部農学科内に農業土木学専修が設けられるも、専修発足後まもなくして在官中に他界された。享年54歳。~東京大学 農学資料館にリンクしてあります
2代目『ハチ公』銅像(安藤士 作)の原型の石膏像がある、鹿児島市立美術館
西郷隆盛像 (安藤照 作)
鹿児島まち歩きステーション
朝早く、公園でラジオ体操をする子供たち&大人たち、気持ちが良いですよね~

今日は、猫ちゃんではなく、わんちゃんの話題をしようと思います

私は、子供の頃、スピッツを飼っていました

犬も大好きで、小型犬も大型犬も好きです

西郷隆盛の飼い犬の


西郷隆盛は、犬好きだったそうで、十数頭を連れて、狩りにでかけることもあったそうです

『愛犬家だった西郷隆盛』に興味深い記事がありますので、リンクしておきます

東京のハチ公像を制作した安藤照氏作の西郷隆盛像と愛犬の『カヤ』ちゃん

上野の西郷隆盛像の隣にいる愛犬は、『ツン』ちゃんだそうです

『ツン』ちゃんの像は、薩摩川内市東郷町の藤川天神にもあるそうです

もともと、ツンちゃんは、東郷町の農家で飼われていた、薩摩犬だったそうです。
「明治7年(1874年)か8年頃、西郷隆盛が薩摩川内市東郷町の藤川天神を 参拝して いる途中、境内で近所の「ツン」という名前の薩摩犬と出会いました。 このツンは、藤川 牧野の前田善兵衛という人の飼い犬でした。 イノシシ狩りが得意な薩摩犬ですが、ツン は 、よく、途中で逃げ帰っていたそうです。
それでもとてもかわいがって、西南戦争にも連れて行ったそうですが、
高城の山々は、「ツン」の生まれた東郷・藤川の西部域であり(約4Kmほどの距離)「ツン」は度々、狩りの途中で藤川に逃げ帰ったと伝わりますが、ある時、西郷隆盛は高城の本町(麓)に親しかった福徳さん宅を訪れて、犬を預けて帰ります。
それは西郷軍が熊本に進発する前のことであって、この後、西郷は城山で自刃して、ついに犬をつれて帰られることもなく、犬は福徳さん宅で飼われていて、この家で死亡しています。
福徳さんたちは西郷の犬を手厚く葬り墓を建ててやり、この墓が”西郷ドンの犬の墓”として存在しています。」という記事がありました

皆、鹿児島県原産の、薩摩犬という種類の犬だそうです

もともとの薩摩犬の先祖は、甑山犬(こしきやまいぬ)だそうで、日本の鹿児島県の甑島列島原産の日本犬の一種だそうですが、現在は絶滅寸前か絶滅状態であるといわれているそうです

西郷隆盛の愛犬『ツン』の像
東京都の上野恩賜公園の西郷隆盛像の横にいる犬は、「ツン」と言う名前の薩摩犬である。このツンの銅像が、菅原神社(藤川天神)参道脇にある。ツンは元は現在の原地区(県道46号線沿い)の百姓の家にて飼われていた犬でありこの藤川天神で馬1頭と引き替えに西郷に譲渡された。この銅像は中村晋也の作で、平成2年(1990年)に除幕された。~ウィキペディアより
天璋院篤姫も、愛犬家であり、結婚前には狆(ちん)を多数飼っていたそうですが、夫の家定が、犬嫌いだったため大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていたそうです

その猫の費用、一年間で25両、かかったそうです

猫のお世話は、もちろんご自分でされたのではなく、大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪にあたる大岡ませ子はじめ、3人の方々が担当していたそうです

詳しくは、以前、ブログでアップした記事にリンクしておきますね

ひこにゃん☆6歳のお誕生日おめでとう!♪由来☆篤姫の飼い猫☆さとひめ♪由来☆みけにゃん♪
わんちゃんつながりで、「忠犬ハチ公」について
昨年の秋、でかけた、鹿児島市立美術館の2階で、『ハチ公』をみつけました

市立美術館には、何回か訪れているのですが、、、、今回,初めて、気付いて、驚きましたが、安藤照は、鹿児島県出身なので、そういう縁かしら~と思ったりしました。。。
今、渋谷にあるハチ公は、2代目だそうで、その原型の石膏像の『ハチ公』が、ここ鹿児島市の市立美術館にあります


作者は、1代目のハチ公銅像の作者、安藤照の息子の、安藤士です

ウィキペディアからですが、こんな経緯があったそうです

当初の銅像
新聞報道によって「忠犬ハチ公」が広く知られるようになった翌年である1933年(昭和8年)ごろ、ハチ公の美談に感動した帝展彫刻審査委員も務める彫塑家・安藤照は、かねてより知り合いであった斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝えた。
この結果、日本犬保存会からの依頼による安藤照作のハチ公像が作成されることとなり、故主の死後、1927年(昭和2年)からハチの飼い主となっていた小林菊三郎はモデルとなるハチを連れて代々木富ヶ谷の自宅から初台にある安藤のアトリエまで毎日通った。
1934年(昭和9年)1月には「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作られて、銅像建設の募金が始まった。日本犬保存会が発起した資金集めには、鉄道諸官庁も後援した。その後、同年4月21日には渋谷駅前に安藤照によるハチ公像が設置され、盛大に行われた銅像の除幕式にはハチ自身と300人もの著名人が参加した。生存中に自らの像が作成・設置されたハチであったが、除幕式の翌年、1935年(昭和10年)3月に死亡した。
この1934年(昭和9年)に設置されたハチ公の銅像は大東亜戦争の金属供出として1944年(昭和19年)に撤去されたが、実際に溶解されたのは日本が無条件降伏して終戦を迎える前日、1945年(昭和20年)8月14日のことだった。鉄道省浜松工機部(当時)で溶解されたハチ公像は機関車の部品となり、東海道線を走ることになった。
現在の銅像
大東亜戦争中の金属供出によって失われた忠犬ハチ公像であったが、終戦後の1948年(昭和23年)8月、初めの忠犬ハチ公像の制作者であった安藤照の息子、安藤士の制作によって再建された。
安藤照は、東京大空襲で、亡くなりました。
敗戦後の日本は当時、いまだ連合国軍の占領下にあったものの、忠犬ハチ公の物語は大戦前から外国にも紹介されて知られており、再建にあたっては連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の愛犬家有志も有形無形の力となったという。
この再建像の除幕式には、GHQの代表が参列、また再建直後の同年8月30日には、来日した ヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れてハチ公の銅像に触れている。外国の著名人によるハチ公像訪問としては他に、映画 『HACHI 約束の犬』に主演したアメリカの俳優、リチャード・ギアが、同映画の宣伝のために渋谷駅前で2009年(平成21年)7月7日に行われたイベント、「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」のためにここを訪れた。ギアはここで、「ついに初めて本当のハチに会えました。今日は本当に幸せで、光栄な気分です」と語り、ハチ公像の首に花輪をかけた。~ウィキペディアより
わんちゃんのハチ公も、ドラマチックな人生、ではなく、わん生を生きましたが、銅像の経緯も色々な事があったのですね

『忠犬ハチ公のおはなし』にリンクしておきますね

ハチ公の飼い主・上野英三郎
明治4(1871)年12月10日生、大正14(1925)年5月21日没
明治28年7月10日帝国大学農科大学農学科卒業、同年同日農業土木及び農具研究のために大学院入学し、明治33年7月10日大学院満期。同年8月東京帝国大学農科大学講師、明治35年3月農科大学助教授。農業土木の研究に従事するかたわら、農商務省兼任技師として耕地整理技術者の養成に尽力された。
大正12年関東大震災後の帝都復興事業には耕地整理の技術が活用され耕地整理技術者が帝都復興を担ったことはあまり知られていない史実の一つである。
わが国における農業土木、農業工学の創始者。明治44年11月東京帝国大学農科大学教授に任じられ農業工学講座担任として農業土木学科創設のために奔走、時の農学部長古在由直教授の助言を受け農学部農学科内に農業土木学専修が設けられるも、専修発足後まもなくして在官中に他界された。享年54歳。~東京大学 農学資料館にリンクしてあります

2代目『ハチ公』銅像(安藤士 作)の原型の石膏像がある、鹿児島市立美術館

西郷隆盛像 (安藤照 作)

鹿児島まち歩きステーション
