今朝は、晴れていますが、冷気を感じます
19日に、市立美術館と黎明館で開催中の、ふたつの写真展にでかけましたが、市立美術館~鹿児島県立図書館~黎明館は、鶴丸城跡に建てられています
歴史を感じる佇まいです
鹿児島市立美術館
薩摩辞書の碑(鹿児島県立図書館入り口にあります)「薩摩辞書とは、薩摩版英和辞書のことです。
慶応元年(1865年)薩摩藩士 高橋新吉と前田献吉と前田正名の3人が藩庁から資金を借り、明治2年(1869年)に中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。
当時2000部出版されたそうです。
英語熱の高まる当時、薩摩辞書として非常に珍重されました。
高橋新吉(後の勧業銀行総裁)らは出版の益金で米国遊学をしたそうです。
この碑は彼らの業績を称え、昭和56年3月に鹿児島市によって建立されました。」 との事です
鹿児島県立図書館
楠や桜など、様々な樹木が植えられています
黎明館
篤姫像
「七高久遠の像」および寮歌「『北辰斜に』の碑」
八重桜の花々が綺麗に咲いていました
鶴丸城跡の石垣と堀と石垣にしっかりと根付いた、アコウの大木と、石垣から見える楠等の木々、彩り豊かな花壇など
鶴丸城
鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城である。鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。
忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、1864年(文久3年)の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス艦隊の軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになった。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃した。
(なお、この薩英戦争のイギリスからみた一部始終は、艦隊乗組員アーネスト・サトウの著書に詳記されており、艦隊側に戦死者が出たほか、鹿児島の町にたいして火葥攻撃をして炎上させたことなどものべている。[1]。)
さて、鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。
1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(97番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。~ウィキペディアより(解説にリンクしています
)
鶴丸城にあった、御楼門など
鶴丸城御楼門の写真は、下記から引用しました
鶴丸城の城門を復元する会にリンクしておきますね
また、天文館中央公園(テンパーク)は、造土館跡・演武館跡で、「西郷隆盛銅像のななめ前の中央公園のあたりは、藩校造士館のあったところです。薩摩藩は、日本の最南端にあるので、武士の教育がじゅうぶんでないという心配がありました。そこで島津家第二十五代藩主重豪は、儒学によって士気をふるいおこそうと考え、一七七三(安永二)年に藩の学校造士館と武道場の演武館をつくりました。」との事です
造土館跡・演武館跡 の解説に、リンクしておきます

19日に、市立美術館と黎明館で開催中の、ふたつの写真展にでかけましたが、市立美術館~鹿児島県立図書館~黎明館は、鶴丸城跡に建てられています

歴史を感じる佇まいです

鹿児島市立美術館
薩摩辞書の碑(鹿児島県立図書館入り口にあります)「薩摩辞書とは、薩摩版英和辞書のことです。
慶応元年(1865年)薩摩藩士 高橋新吉と前田献吉と前田正名の3人が藩庁から資金を借り、明治2年(1869年)に中国の上海で開成所版の英和辞書を翻刻したものです。
当時2000部出版されたそうです。
英語熱の高まる当時、薩摩辞書として非常に珍重されました。
高橋新吉(後の勧業銀行総裁)らは出版の益金で米国遊学をしたそうです。
この碑は彼らの業績を称え、昭和56年3月に鹿児島市によって建立されました。」 との事です

鹿児島県立図書館
楠や桜など、様々な樹木が植えられています

黎明館
篤姫像
「七高久遠の像」および寮歌「『北辰斜に』の碑」
八重桜の花々が綺麗に咲いていました

鶴丸城跡の石垣と堀と石垣にしっかりと根付いた、アコウの大木と、石垣から見える楠等の木々、彩り豊かな花壇など
鶴丸城
鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山麓にあった城である。鹿児島では一般的に古くから「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。「鶴丸」の呼び名の語源は島津家の家紋が「鶴丸の紋」であったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、1604年(慶長9年)に完成する。
忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、1864年(文久3年)の薩英戦争の時に義弘の懸念は現実のものとなり、イギリス艦隊の軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになった。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃した。
(なお、この薩英戦争のイギリスからみた一部始終は、艦隊乗組員アーネスト・サトウの著書に詳記されており、艦隊側に戦死者が出たほか、鹿児島の町にたいして火葥攻撃をして炎上させたことなどものべている。[1]。)
さて、鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったためシロアリ被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。
1901年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、戦後、鹿児島県立大学医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(97番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。~ウィキペディアより(解説にリンクしています
)鶴丸城にあった、御楼門など
鶴丸城御楼門の写真は、下記から引用しました

鶴丸城の城門を復元する会にリンクしておきますね

また、天文館中央公園(テンパーク)は、造土館跡・演武館跡で、「西郷隆盛銅像のななめ前の中央公園のあたりは、藩校造士館のあったところです。薩摩藩は、日本の最南端にあるので、武士の教育がじゅうぶんでないという心配がありました。そこで島津家第二十五代藩主重豪は、儒学によって士気をふるいおこそうと考え、一七七三(安永二)年に藩の学校造士館と武道場の演武館をつくりました。」との事です

造土館跡・演武館跡 の解説に、リンクしておきます

























