先日、照国神社近くの、照国通り沿いにある、『桜島爆発記念碑』という石碑について、ブログでご紹介しましたが、その石碑を作る草案は、鹿児島県出身の地震学者、今村明恒博士が作ったそうですビックリマーク

自然災害への日頃からの準備は、なかなか日常生活の中では、すぐ忘れがちになってしまいます。。。
特に、大地震や火山の大噴火は、数年以内なのか、数十年以内なのか、数百年以内なのか、千年に1度か、、、規模はどの程度なのか、、、、検討がつかないところがあり、そしてどこで遭遇するかもわからず、日常生活にその緊急事態の準備を組み込んでいく難しさを感じますが、この『桜島爆発記念碑』を作った、今村明恒博士の思いが伝わり、やはりできる備えを少しずつでも具体的にしていこうと思いました。。。

『歴史秘話ヒストリア』でも取り上げられていたので、ご存知の方々多いと思いますが。。。

下記は、ウィキペディアからですが、引用します。下記のところからもウィキペディアにリンクしておきますので、詳しくはどうぞ音譜

今村明恒~ウィキペディアより
1870年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれた。

鹿児島高等中学造士館予科を経て第一高等中学校を卒業後、1891年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した[1]。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。

今村明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を、雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された[2][3]。しかし1923年に関東地震(関東大震災)が発生し、明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。

1911年に今村式強震計を開発した。

1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。1925年に北但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた明恒は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。明恒の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。

1929年、1892年に解散していた日本地震学会を再設立し、その会長となった。専門誌『地震』の編集にも携わった。1931年に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、その教え方についても詳しく指導している。

1944年に東南海地震が発生した際には、掛川-御前崎の水準測量を行なっていた。この時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。  ~ウィキペディアより


6月12日にアップした記事を再アップしますビックリマーク
桜島爆発記念碑は東桜島小学校のものが有名ですが、県立博物館の敷地内にもあります。この記念碑は鹿児島出身の地震学者今村明恒東京帝大教授の草案に基づいて鹿児島市が建立したものです。今村博士は、大正噴火時にも文明・安永噴火時と同様な顕著な前兆現象があったのに、その教訓が生かされなかったことを残念に思われ、石碑として後世に伝えようと提言されたのだそうです。(文責:岩松 暉)

かごしま知的散策マップ(桜島記念碑)から引用させていただきました音譜
石碑の碑文について詳しく記載があります音譜
また、いろいろと興味深い情報がありますので、どうぞ音譜音譜
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