昨日は、穏やかな晴天となり、霧島方面へでかけました

霧島神宮は、あちらこちらから多くの参拝客の方々でにぎわい、七草祝いの親子連れもいらっしゃっていました
参拝した後、お守りなど買って、霧島神宮の裏手にある、『九州自然歩道霧島コース』をしばらく歩いてみました
御手洗川が流れていたり、小さな神社があったり、そして、『性空上人』という僧侶のお墓もありました
この方は、旧記によると、本宮が霧島山噴火のために焼失後に、新たに、霧島神宮を再興奉還された方だそうです
霧島の山々への山岳信仰から始まり、江戸末期の三国名勝図絵に描かれた霧島神宮は、神仏混合の西御在所霧島権現社と呼ばれ、中心に華林寺という大きなお寺があったそうで、密教文化の影響を強くもち、修験道の山寺があったそうです
霧島山には、6つの大きな権現社があり、山麓全体で800の寺・坊があったといわれます。山霧島神宮は、そのひとつであったという事です
霧島神宮拝殿の柱にある、白像と獅子の彫刻も、仏教の影響を受けています
詳しくは、『霧島神宮の歴史・文化』に、記載がありますので、リンクしておきます
そして、ウィキペディアからですが、下記に記載してみました
霧島神宮の解説
欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。
しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上する。文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮である。但し、建物はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいる。
神木の杉
また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
霧島神社(きりしまじんじゃ)は、かつて日向国にあった神社(式内社)である。また、霧島神宮の旧社名でもある。
国史の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)8月1日条で、日向国の他の3社とともに霧島岑神が官社に預るという記述である。その後、『日本三代実録』天安2年(858年)10月22日条に従四位下の神階を授けるという記述がある。延喜式神名帳では「日向国諸県郡 霧島神社」と記載され、小社に列している。
霧島神社は霧島山の神を祀ったものであり、元々は霧島山の山頂附近にあったが、霧島山の噴火によって社殿を焼失したため各地に遷座され、また、分社も行われた。そのため、現在、式内社・霧島神社の論社には以下の4社がある。
霧島岑神社(宮崎県小林市細野、旧県社、祭神 瓊瓊杵命ほか)
東霧島神社(宮崎県都城市高崎町東霧島、旧県社、祭神 伊弉諾尊)
霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田、旧県社、祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊)
霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口、旧官幣大社、祭神 瓊瓊杵尊)
霧島神宮の社伝によれば、鎌倉時代の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の長尾山に移し東霧島権現(東霧島神社)とした。文明16年(1484年)、島津忠昌がこれを2社に分けた。東社(霧島東御在所両所権現)が現在の霧島東神社、西社(西御在所霧島六社権現)が現在の霧島神宮である。
霧島岑神社(霧島山中央六所権現)の社伝では、天慶・天暦年間に 性空上人が霧島岑神社に参籠し、霧島山の四方に夷守神社ほか4社を創建したという。
これら4社に狭野神社(狭野大権現)・夷守神社(夷守六所権現。明治6年に霧島岑神社に合祀)を加えて霧島六社権現という。このうち西御在所霧島六社権現が中心的な役割を果たしており、明治の神仏分離の際に霧島神社に改称した。明治7年(1874年)、霧島神社は霧島神宮となり、明治10年に東霧島神社を、明治13年に霧島東神社を摂社とした。
ウィキペディアより
大きな木々の林の中、ずっと階段を下りていきました
旧参道だそうで、途中、霧島七不思議と呼ばれる中のひとつの、亀石もありました
霧島七不思議伝説に、リンクしています
霧島神宮のホームページに、リンクしています


霧島神宮は、あちらこちらから多くの参拝客の方々でにぎわい、七草祝いの親子連れもいらっしゃっていました

参拝した後、お守りなど買って、霧島神宮の裏手にある、『九州自然歩道霧島コース』をしばらく歩いてみました

御手洗川が流れていたり、小さな神社があったり、そして、『性空上人』という僧侶のお墓もありました

この方は、旧記によると、本宮が霧島山噴火のために焼失後に、新たに、霧島神宮を再興奉還された方だそうです

霧島の山々への山岳信仰から始まり、江戸末期の三国名勝図絵に描かれた霧島神宮は、神仏混合の西御在所霧島権現社と呼ばれ、中心に華林寺という大きなお寺があったそうで、密教文化の影響を強くもち、修験道の山寺があったそうです

霧島山には、6つの大きな権現社があり、山麓全体で800の寺・坊があったといわれます。山霧島神宮は、そのひとつであったという事です

霧島神宮拝殿の柱にある、白像と獅子の彫刻も、仏教の影響を受けています

詳しくは、『霧島神宮の歴史・文化』に、記載がありますので、リンクしておきます

そして、ウィキペディアからですが、下記に記載してみました

霧島神宮の解説
欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。
しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上する。文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮である。但し、建物はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいる。
神木の杉
また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
霧島神社(きりしまじんじゃ)は、かつて日向国にあった神社(式内社)である。また、霧島神宮の旧社名でもある。
国史の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)8月1日条で、日向国の他の3社とともに霧島岑神が官社に預るという記述である。その後、『日本三代実録』天安2年(858年)10月22日条に従四位下の神階を授けるという記述がある。延喜式神名帳では「日向国諸県郡 霧島神社」と記載され、小社に列している。
霧島神社は霧島山の神を祀ったものであり、元々は霧島山の山頂附近にあったが、霧島山の噴火によって社殿を焼失したため各地に遷座され、また、分社も行われた。そのため、現在、式内社・霧島神社の論社には以下の4社がある。
霧島岑神社(宮崎県小林市細野、旧県社、祭神 瓊瓊杵命ほか)
東霧島神社(宮崎県都城市高崎町東霧島、旧県社、祭神 伊弉諾尊)
霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田、旧県社、祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊)
霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口、旧官幣大社、祭神 瓊瓊杵尊)
霧島神宮の社伝によれば、鎌倉時代の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の長尾山に移し東霧島権現(東霧島神社)とした。文明16年(1484年)、島津忠昌がこれを2社に分けた。東社(霧島東御在所両所権現)が現在の霧島東神社、西社(西御在所霧島六社権現)が現在の霧島神宮である。
霧島岑神社(霧島山中央六所権現)の社伝では、天慶・天暦年間に 性空上人が霧島岑神社に参籠し、霧島山の四方に夷守神社ほか4社を創建したという。
これら4社に狭野神社(狭野大権現)・夷守神社(夷守六所権現。明治6年に霧島岑神社に合祀)を加えて霧島六社権現という。このうち西御在所霧島六社権現が中心的な役割を果たしており、明治の神仏分離の際に霧島神社に改称した。明治7年(1874年)、霧島神社は霧島神宮となり、明治10年に東霧島神社を、明治13年に霧島東神社を摂社とした。
ウィキペディアより
大きな木々の林の中、ずっと階段を下りていきました

旧参道だそうで、途中、霧島七不思議と呼ばれる中のひとつの、亀石もありました

霧島七不思議伝説に、リンクしています

霧島神宮のホームページに、リンクしています


















