今日は、冬至ですね~
柚を買い求めて、柚湯で暖まりましょう
それにカボチャ料理を一品添えましょうと思っています
冬至で思い出すのは、東京に住んでいた時、よく母と行った、東西線早稲田駅近くの穴八幡です
一陽来復というお札を母が買い求めて、大事にお家の柱に張っていた姿を思い出します
一陽来復(来福)というのは、『冬が終わり、春が来る。悪い事が続いても必ず良い事が来る。明けない夜はないように、必ず太陽が昇って、明るい日々が来る。』という言葉で、来年へ向けてのお守りで、母は、毎年、私を誘ってでかけました
懐かしいです
穴八幡のにぎわいの写真が載ったページをみつけました
***早稲田のまちウォッチングサイト~穴八幡の一陽来復
解説は、一応、ウィキペディアから引用させていただきますね
社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。
1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。1641年(寛永18年)別当の放生寺を建立するため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。
江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。また冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる。お守りを受け取れる期間は毎年冬至の日から翌年節分の日までであり、冬至の日は特別に午前5時から受け取る事ができる。
早稲田周辺の寺院や神社は、早稲田大学建設に伴い取り壊して近くに移転し、創建当時とは異なる場所にあるものが多いが、穴八幡宮は創建当時から移転していない。なお、現在同神社は旧別当の放生寺と日本キリスト教団早稲田教会と隣接しており、神道、仏教、キリスト教が街の一角で共存している状態が続いている。
今日は、甲突川の水源~甲突川~橋~石橋記念公園などの風景でお楽しみ下さいね

鹿児島市内には、甲突川が流れています
その水源は、日置市郡山町の八重山の麓の甲突池です

鹿児島市内を流れる甲突川河畔を散策したり、木市が行われたり、親しまれている甲突川です
甲突川の名前の由来が、鹿児島県のホームページにありましたので、下記に引用します。
鹿児島市内の中心を貫く甲突川。『三国名勝図会』によると「神月川」とあり、「甲突川」は俗な表記とされている。しかし、加治屋町をはじめ川沿いの町から、郷中教育のもと多くの武士・偉人を生み出したことを考えると、甲胄を突き破る=「甲突川」が公的に採用された理由も納得できる。
鹿児島市加治屋町出身の、明治時代の歴史に登場する方々は、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌、西郷従道、黒木為禎、篠原国幹、村田新八、伊地知正治、吉井友実、井上良聲、、、
詳しくは、明治時代の事を色々と記載されている、素敵なページがありましたので、もしご興味があられましたら、どうぞ
下記にリンクさせておきますね
明治という国のかたち 加治屋町出身の偉人たち
ライオンズ公園噴水

橋の上の子供たちのブロンズ像













大久保利通像

甲突川も上流の方へいくと、ちょっと趣きが違った川に感じられます。
梅ヶ淵付近の甲突川の風景をお楽しみ下さいね



梅ケ淵近くの樹木




梅ヶ淵近くの甲突川へ流れ込む支流

8.6水害石碑
平成5年8月豪雨について
平成5年8月豪雨(へいせい5ねん8がつごうう)は、1993年8月1日に鹿児島県姶良郡を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.1豪雨(8.1水害)と、同年8月6日に鹿児島市を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.6豪雨(8.6水害)を含む、同年7月31日から8月7日にかけての一連の豪雨災害に対して気象庁が正式に命名した総称。鹿児島県内のマスコミ各社ではいわゆる8.6豪雨(8.6水害)のことを指すことが多く、同年9月の台風13号も「8.6水害のあった1993年の台風13号」と紹介される。
1993年8月6日午後から鹿児島市を中心とした地域で1時間あたり最大99.5mm(観測地点:郡山町)の猛烈な雨が数時間降り続いた。鹿児島市の雨量は一日で259mmに達し、鹿児島市内を中心として死者48名、行方不明者1名を出した。この豪雨で水没した市内や竜ヶ水地区で土石流に巻き込まれ、土砂に埋もれて大破した列車の様子は新聞、テレビなどで大々的に報道された。
鹿児島市中心部を流れる甲突川が増水し、江戸時代に架けられた甲突川五石橋のうち新上橋と武之橋が流失した[1]。また、川からあふれた水により流域の約12000戸が浸水の被害を受けた。川沿いを通る国道3号は鹿児島市草牟田付近で深さ約2mの水に浸かり、鹿児島市小山田町付近も陥没するなどして長期間にわたって通行止めとなった。 ウィキペディアより
甲突川には、5つの立派な石橋が、かかっていましたが、平成5年8月6日の水害によって、新上橋と武之橋が、流失してしまいました
その後、河川改修工事が始まり、残る3つの石橋、玉江橋、西田橋、高麗橋が、祇園之洲に石橋記念公園として、移設されました
詳しくは、下記に、リンクさせておきますので、御覧下さいね

石橋記念公園






柚を買い求めて、柚湯で暖まりましょう
それにカボチャ料理を一品添えましょうと思っています
冬至で思い出すのは、東京に住んでいた時、よく母と行った、東西線早稲田駅近くの穴八幡です

一陽来復というお札を母が買い求めて、大事にお家の柱に張っていた姿を思い出します

一陽来復(来福)というのは、『冬が終わり、春が来る。悪い事が続いても必ず良い事が来る。明けない夜はないように、必ず太陽が昇って、明るい日々が来る。』という言葉で、来年へ向けてのお守りで、母は、毎年、私を誘ってでかけました

懐かしいです

穴八幡のにぎわいの写真が載ったページをみつけました
***早稲田のまちウォッチングサイト~穴八幡の一陽来復解説は、一応、ウィキペディアから引用させていただきますね

社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。
1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。1641年(寛永18年)別当の放生寺を建立するため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の阿弥陀如来像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。
江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。また冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる。お守りを受け取れる期間は毎年冬至の日から翌年節分の日までであり、冬至の日は特別に午前5時から受け取る事ができる。
早稲田周辺の寺院や神社は、早稲田大学建設に伴い取り壊して近くに移転し、創建当時とは異なる場所にあるものが多いが、穴八幡宮は創建当時から移転していない。なお、現在同神社は旧別当の放生寺と日本キリスト教団早稲田教会と隣接しており、神道、仏教、キリスト教が街の一角で共存している状態が続いている。
今日は、甲突川の水源~甲突川~橋~石橋記念公園などの風景でお楽しみ下さいね


鹿児島市内には、甲突川が流れています

その水源は、日置市郡山町の八重山の麓の甲突池です


鹿児島市内を流れる甲突川河畔を散策したり、木市が行われたり、親しまれている甲突川です

甲突川の名前の由来が、鹿児島県のホームページにありましたので、下記に引用します。
鹿児島市内の中心を貫く甲突川。『三国名勝図会』によると「神月川」とあり、「甲突川」は俗な表記とされている。しかし、加治屋町をはじめ川沿いの町から、郷中教育のもと多くの武士・偉人を生み出したことを考えると、甲胄を突き破る=「甲突川」が公的に採用された理由も納得できる。
鹿児島市加治屋町出身の、明治時代の歴史に登場する方々は、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌、西郷従道、黒木為禎、篠原国幹、村田新八、伊地知正治、吉井友実、井上良聲、、、
詳しくは、明治時代の事を色々と記載されている、素敵なページがありましたので、もしご興味があられましたら、どうぞ

下記にリンクさせておきますね

明治という国のかたち 加治屋町出身の偉人たち
ライオンズ公園噴水

橋の上の子供たちのブロンズ像













大久保利通像

甲突川も上流の方へいくと、ちょっと趣きが違った川に感じられます。
梅ヶ淵付近の甲突川の風景をお楽しみ下さいね




梅ケ淵近くの樹木





梅ヶ淵近くの甲突川へ流れ込む支流

8.6水害石碑
平成5年8月豪雨について
平成5年8月豪雨(へいせい5ねん8がつごうう)は、1993年8月1日に鹿児島県姶良郡を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.1豪雨(8.1水害)と、同年8月6日に鹿児島市を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.6豪雨(8.6水害)を含む、同年7月31日から8月7日にかけての一連の豪雨災害に対して気象庁が正式に命名した総称。鹿児島県内のマスコミ各社ではいわゆる8.6豪雨(8.6水害)のことを指すことが多く、同年9月の台風13号も「8.6水害のあった1993年の台風13号」と紹介される。
1993年8月6日午後から鹿児島市を中心とした地域で1時間あたり最大99.5mm(観測地点:郡山町)の猛烈な雨が数時間降り続いた。鹿児島市の雨量は一日で259mmに達し、鹿児島市内を中心として死者48名、行方不明者1名を出した。この豪雨で水没した市内や竜ヶ水地区で土石流に巻き込まれ、土砂に埋もれて大破した列車の様子は新聞、テレビなどで大々的に報道された。
鹿児島市中心部を流れる甲突川が増水し、江戸時代に架けられた甲突川五石橋のうち新上橋と武之橋が流失した[1]。また、川からあふれた水により流域の約12000戸が浸水の被害を受けた。川沿いを通る国道3号は鹿児島市草牟田付近で深さ約2mの水に浸かり、鹿児島市小山田町付近も陥没するなどして長期間にわたって通行止めとなった。 ウィキペディアより
甲突川には、5つの立派な石橋が、かかっていましたが、平成5年8月6日の水害によって、新上橋と武之橋が、流失してしまいました

その後、河川改修工事が始まり、残る3つの石橋、玉江橋、西田橋、高麗橋が、祇園之洲に石橋記念公園として、移設されました

詳しくは、下記に、リンクさせておきますので、御覧下さいね


石橋記念公園








