妙円寺詣り2011フェスタが、10月22日~23日にあり、日置市伊集院町の徳重神社方面へでかけましたが、その時に撮った5分~10分ほどのちょっと長めの動画を取り出して、YouTubeに、やっとアップできました
デジカメで撮ったので、ちょっとカメラに負荷をかけたかも。。。と思ったのですが、何とか撮れていました
You Tubeにアップするのにも、時間がかかり、また、画面が暗めだったので、編集して、明るめにしてみやすくしてみました
ホントに便利で、楽しく、フォト&動画を楽しめる時代になりましたね~(しみじみ。。。笑)
吉利北区太鼓踊り
日沖市指定無形民俗文化財
吉利では8月23日に南区・中区・北区が輪番制で、日置では諏訪と八幡が8月28日に南方神社を中心に踊りを奉納している。起源については慶長13年(1608)ごろとの説もあるが明らかではない。

伊作太鼓踊り
伊作太鼓踊の由来にはいくつかの説がありますが、 「応永13(1406)年、伊作島津氏4代当主久義が、田布施郷の二階堂氏を降伏させた様子をヒントに考案された、戦勝の踊りである。」と伝えられています。
唄方数人(踊りの師匠が当たる)、中打4人(内2人は鉦、2人は小太鼓)、平打20~24人で行います。中打の鉦2人は、稚児姿に赤白の襷を左肩から右下にかけ、腰に小刀を差します。小太鼓の2人は美麗な少女姿に襷をかけ、中打は全員花笠を冠ります。平打は白装束に草鞋履きで、胸に太鼓をつけ、背にホロ(薩摩鶏の羽)を背負います。ホロの真中には軍配を形どった2メートルほどのヤバタ(竹を籠目に編んで軍配型したもの)を、両側にはなぎなたを挿します。
踊りの内容は10種位に大別され、更に各踊りは、おどり、かもい(間舞)よせの形で組立てられ、極めて多彩です。中打は踊りに変化があり、優美であるのに対し、平打は大きなヤバタを地面につくくらいにゆすりながら、勇壮に踊ります。それぞれが洗練されており、その対照の妙はじつに見事なものです。
昭和41年3月11日県の有形民俗文化財に指定にされました。
伊作田踊り
江戸時代に始まったと伝えられていて、伊作田兵部道材公の慰霊、農家の五穀豊穣と漁師の大漁祈願、更に集落の親和のために、3年毎に踊り継がれています。道材公は伊作田を領有した南北朝時代の武将で、北朝方に破れ非業の死を遂げたとされています。
庄屋どんと称する指揮者2人、鉦5人、小太鼓2人、大太鼓12人、なぎなた15人、鉄砲25人くらいで構成されています。
初めは勇壮、華麗で、終わりになると一種の哀調が流れ、歌と鉦と小太鼓、大太鼓が優雅に調和して集団美を形成します。踊りは、鉦や太鼓を打ちながら、足を横にやったり後退したりする単調な動作の連続です。これは、道材公の供養のための念仏踊りと考えられています。
鉦5人のうち3人は男装、2人は女装で木口笠着用、小太鼓2人は女装で花笠を被ります。なぎなた15人は少年で浴衣を着用し、大太鼓12人は白の上下服に黒タビです。
歌は、哀別離苦の至情がこもり、哀調切々たるものがあります。その動作は、拝礼するしぐさを繰り返し、道材の出陣、敵の計略、敗走の様子、農作業の有様などを取り入れています。
昭和60年7月19日旧東市来町指定、平成17年5月1日日置市誕生により、市指定となりました。
大田太鼓踊り
鹿児島県指定無形民俗文化財
1609年n島津琉球統治に由来し、広済寺の僧侶で、報恩寺の住職も兼ねていた、雪岑(せっしん)和尚が作り上げたといわれる。
今は、豊年祈願や、雨乞いの踊りとして、地域の文化向上に寄与しながら現在に至っている。

デジカメで撮ったので、ちょっとカメラに負荷をかけたかも。。。と思ったのですが、何とか撮れていました

You Tubeにアップするのにも、時間がかかり、また、画面が暗めだったので、編集して、明るめにしてみやすくしてみました

ホントに便利で、楽しく、フォト&動画を楽しめる時代になりましたね~(しみじみ。。。笑)

吉利北区太鼓踊り
日沖市指定無形民俗文化財
吉利では8月23日に南区・中区・北区が輪番制で、日置では諏訪と八幡が8月28日に南方神社を中心に踊りを奉納している。起源については慶長13年(1608)ごろとの説もあるが明らかではない。

伊作太鼓踊り
伊作太鼓踊の由来にはいくつかの説がありますが、 「応永13(1406)年、伊作島津氏4代当主久義が、田布施郷の二階堂氏を降伏させた様子をヒントに考案された、戦勝の踊りである。」と伝えられています。
唄方数人(踊りの師匠が当たる)、中打4人(内2人は鉦、2人は小太鼓)、平打20~24人で行います。中打の鉦2人は、稚児姿に赤白の襷を左肩から右下にかけ、腰に小刀を差します。小太鼓の2人は美麗な少女姿に襷をかけ、中打は全員花笠を冠ります。平打は白装束に草鞋履きで、胸に太鼓をつけ、背にホロ(薩摩鶏の羽)を背負います。ホロの真中には軍配を形どった2メートルほどのヤバタ(竹を籠目に編んで軍配型したもの)を、両側にはなぎなたを挿します。
踊りの内容は10種位に大別され、更に各踊りは、おどり、かもい(間舞)よせの形で組立てられ、極めて多彩です。中打は踊りに変化があり、優美であるのに対し、平打は大きなヤバタを地面につくくらいにゆすりながら、勇壮に踊ります。それぞれが洗練されており、その対照の妙はじつに見事なものです。
昭和41年3月11日県の有形民俗文化財に指定にされました。
伊作田踊り
江戸時代に始まったと伝えられていて、伊作田兵部道材公の慰霊、農家の五穀豊穣と漁師の大漁祈願、更に集落の親和のために、3年毎に踊り継がれています。道材公は伊作田を領有した南北朝時代の武将で、北朝方に破れ非業の死を遂げたとされています。
庄屋どんと称する指揮者2人、鉦5人、小太鼓2人、大太鼓12人、なぎなた15人、鉄砲25人くらいで構成されています。
初めは勇壮、華麗で、終わりになると一種の哀調が流れ、歌と鉦と小太鼓、大太鼓が優雅に調和して集団美を形成します。踊りは、鉦や太鼓を打ちながら、足を横にやったり後退したりする単調な動作の連続です。これは、道材公の供養のための念仏踊りと考えられています。
鉦5人のうち3人は男装、2人は女装で木口笠着用、小太鼓2人は女装で花笠を被ります。なぎなた15人は少年で浴衣を着用し、大太鼓12人は白の上下服に黒タビです。
歌は、哀別離苦の至情がこもり、哀調切々たるものがあります。その動作は、拝礼するしぐさを繰り返し、道材の出陣、敵の計略、敗走の様子、農作業の有様などを取り入れています。
昭和60年7月19日旧東市来町指定、平成17年5月1日日置市誕生により、市指定となりました。
大田太鼓踊り
鹿児島県指定無形民俗文化財
1609年n島津琉球統治に由来し、広済寺の僧侶で、報恩寺の住職も兼ねていた、雪岑(せっしん)和尚が作り上げたといわれる。
今は、豊年祈願や、雨乞いの踊りとして、地域の文化向上に寄与しながら現在に至っている。


