☆らくあればくあり くあればらくあり
※解説
今は、安楽な思いをしていても、そのうち苦しいと思うときは来るものである、逆に、苦しいと思っているときもいつまでも続くものではない。 その時々の感情に流されず、良いときは用心し、苦しいときはそれから抜け出せるよう努力すべきであるという戒め。
☆今日は何の日?!
❋トークの日は、昨日の頭髪の日同様毎月あるのでスルーします🙇
水戸黄門の
「人生楽ありゃ苦もあるさ」😅
よくみてました。
最初のシリーズ、黄門様が東野英治郎の。
水戸と言えば偕楽園
黒木瞳は失楽園🫣は置いといて🫷😅
※偕楽園
偕楽園(かいらくえん)は、茨城県水戸市にある日本庭園で、日本三名園(水戸の偕楽園 金沢の兼六園 岡山の後楽園)の一つに数えられています。1842年(天保13年)に、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(とくがわ なりあき)によって造られました。
梅の名所ですよね。
野球の話で言うと😅
偕楽園のある茨城県の学校とも何校がゲームをしました。
土浦三高という学校と練習試合が組まれて茨城遠征したのですが、行きのバスの中で初老の紳士風の方が、僕達が背負っていた学校の名前入り遠征バックを見て
「あの強い◯◯さんですか?」と尋ねて来たんです😸
たら、監督が喜んじゃって😅
しばらく話してました🤭
この高校に小松崎さんという、後にドラフトかかって中日に行った選手がいたんですね。
キャッチャーから見て、そんなに怖いバッターではなかったのですが、プロになってゲームに出てきた時に、なんというかプロのスカウトの目は違うんだなと思いました。
茨城にある学校で、今では進学校ですけど
江戸川学園取手という開校3年目で甲子園に行った学校の、グランド開きに招待されて行きました。
HR打ってます🙋ランニングHRだけど🏃
フェンスあれば越えてました!
自慢しておきます😅
この江戸川学園取手に行くことが決まっていた選手、僕のひとつ下になりますけど。
その子達が中3の時に何人か練習に参加していたんですよね。
この学校の゙野球部自体、監督以下指導者が母校出身者が多かったからだと思いますが、そんな関係から入学前にセレクションも兼ねて一緒にボールを追いかけていました。
この時にいた、後に入学後キャプテンになった人物が松坂大輔さんが所属していたクラブチームの監督だったかで。
よくありますよね、話ししていると
あ、あそこの監督が?選手が?
へぇ~そうだったんだ、なんてこと
そんな感じ😅
茨城県で水戸商業という学校が、何年か前に甲子園出てますが、強かったんですよね、もっと昔。
西武に居た大久保博元さんが、ここの学校の出身ですが、ここのユニフォームのロゴが母校のそれに似てたりします。
江戸川学園取手が甲子園に出た時は、あれ?😳というくらい、母校のユニに似てました。
大阪の学校で、全国優勝したことがある高校のユニフォームもそっくりだということが、こっちにきて調べていたらわかった、なのですが。
これ、2年の夏。
この時は5番バッターで、場所は神宮球場。
相手はノーシードでは最強と言われていた二松学舎。シードで出ていった私達負けました!😅
この翌々年に二松学舎は、初めて甲子園選抜大会に東京代表で出場したのですが、その時のセカンドは地元の後輩。
ワタシ彼から「神樣」と呼ばれてます🤭
修行のような当時の運動部。
苦あれば楽、楽あれば苦というよりは
苦ばっかり😅のような。
やっぱり体罰というのが、その「苦」という文字に繋がってしまうのかなと思います。
監督だからコーチだから、体罰を受けても仕方ないということではなくて、やっぱり良くないと思いますね。
当時は、世の中全体がそんな流れだったので、それが当然のように思う人が多かったし。
僕の一つ上の⚾キャプテンの先輩。
この人が中学受験で、個人的に母校の学校見学をしていた時に、体育の授業を校庭でやっていたそうで。
その時の体育教師は母校では非常に有名なバレー部の顧問で、東京オリンピックのTV解説者として出演したこともある人でしたが、指導の仕方がまるで軍隊方式なんです、僕らの時もそうでしたけど。
すぐ手が出る😯
足も出る😅
もぅね、真面目な生徒のが多いのでうち😅
その教師が大声で注意するとそういう生徒は震えちゃうのよ😢
僕は、小さい時から😎兄にやられてたので😅
強い免疫が出来すぎて溢れちゃってたくらい🤦
あー可哀想だなぁと見ていて思いました。
話戻して😅
たまたま、その先輩とご両親が見学していた時に体育教師が🖐️平手打ちを生徒にしたらしく。
これを見て、先輩の父親は、この学校がいい!と決めたくらいなので😅
そういう時代なんですよね。
👊が容認されるという。
そういった流れが部活にも及んでたってなところ。
でも、母校に関して言えば野球部のみ。
あとは聞いたことがないです。
ワタシ先輩に練習後のミーティングで〆られた時は、もー頭来ちゃって😡
黙ってましたけど、ずっとムッとして返事も適当にしていたのて、尚更やられるという🤦
でもね、優しい先輩も勿論いるわけで。
あ、お兄さんが慶應の。
この人も結局のところ😎系の人なんだけど😅
合宿所から帰る時に「気にすんなよ」とひとこと言ってくれて😭😭
この先輩💕なんです、今も🤭
今は、いじり倒しておちょくりますけど😁
今日はトークの日!
話さないとわからない、と思っています。
最近でこそ妻とモメることもほとんどありませんが、昔はやっぱり僕なんかは、人間が出来てないのでモメることもありました。
そーすると、口を聞いてくれなくなるわけですよ😅
もーこれがワタシ、堪えられなくて🤦
なんで、こっちが折れなきゃならないんだ?
と納得いかない部分もありましたが、いつもこっちが折れる、負ける😒
口じゃ勝てないですもん😒
悔しい!
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今日はまた病院。
頭がフラフラするので。。
ではありませんが😅
またそれを書くと長くなるので😅🙇
R&Rを初めて聴いたのは、これだったかも。
映画アメリカン・グラフィティのオープニングで使用のロック・アラウンド・ザ・クロック。
メルス・ドライブインというお店がバックに見えますが、渋谷の文化屋雑貨店横の階段上がった2階の喫茶店メルス。
ここから取ったんでしょうね、たぶん。
なんかよかったんです、雰囲気が。
クールスも出入りしてたと思いますが、ピッピさんというボーカルが、店から出てきた時は固まってしまいました😮
「あ、ピッピだ!」と😅
クールスが暴力教室というアメリカの映画を真似たものに主演で出てましたが(見にくい🙇)、アメリカン・グラフィティにしてもこの暴力教室にしても、飯田橋の映画館だったか、そんなところでみたんですよね。
場末の映画館みたいな😅
嫌いじゃないんだな。