妻が乳がんになってから再認識したことに、
1)妻の父方の家系は癌でなくなっている方が多い。もちろん高齢になってからではあるが。
2)妻の父は昭和のモーレツサラリーマンでヘビースモーカーだったので、彼女は副流煙に幼少期からされされつづけた。
こういった変えがたい事実を示されると、先天的・後天的遺伝要素を主原因として、自分を納得させようとしてしまいがち。
過去に原因仮説を見出してしまうと、それ以外を考えなくなるのは、人間の特性だそうだ。気を付けないと。
そういった環境要因で、発症確率が高い要因を抱えての生活ではあったにしても、発症する・しないの選択がまだ許されていた段階で、発症のトリガーを、妻が負っていたかもしれない環境からのストレスが引いたのでは、と疑ってみることにした。
妻と私が専念していたこと、主に気にしていたことをネットワーク図にして考えてみて、その気づきを画にしてみた。
**Graphvizを使ってネットワーク図を作成し、その画像ファイルにFireAlpacaのアプリを使って、購入したWacom Intuos Medium CTL-6100WLで書き込んだ**
いったん図にしてみると、私の都合、大人の都合に、悲しいながら気づく。
1)「仕事や外向きの働きが大切なんだ」と思っていた私は「自己実現欲」「貢献欲」「評価の欲求」に邁進していた。
確かに報酬を得ている仕事はつらいこともあるが、評価・貢献となって報いられるループがあるから、やれる。
そのループの中に達成や学習からくる「喜び」が含まれていて、それへの依存から、前のめりになれているのかも。
その反面、家事や子どもの世話と言ったものはどうか。いわゆる労働の対価である評価が描けないではないか。
2)子ども達の世話というが、子どもにも考えがあり、求める内容に意味がある。栄養と物資を与えればよいというものではない。
まずは1)について。
妻は専業主婦である。
そうすると、仕事をしている稼ぎ人への遠慮などから、どうしても環境を我慢する方向に考えがちで、これは心理的に継続的ではない状態になってしまうと、この期に及んで気づいた。
妻がキツそうにしていても、以前は「私だって外で仕事がキツいのに、家の中のことは何とかしてほしい」と言ってしまった姿勢を悔やむ。
そうしてその不理解がさらなる忍耐を強いてしまっていたはず。
私だって仕事をしていて「それは評価しません」「役に立たない」と言われ続けたら「あーやってられない」「だまって我慢するしかないのか」となる。
それは相当なストレスになる。きっと精神的に病む。
専業主婦が、最近の若い女性の憧れのポジションらしいが、自分に合うかどうかよく考えた方が良いかもしれない。
私の母親は仕事をしていたので、大人になってから聞いてみたら「仕事中は子育てを忘れられるから、子育てストレスはさほど感じなかった」とのこと。
もちろん人それぞの置かれている環境、受け止め方にもよるが、実際そうなのかもしれない。
赤子を生み母親になる、ということは身体を変えられ、脳の中身が母性本能に乗っ取られて強制的に改造されてしまい、それまでの思考回路をすっ飛ばして、子どもの危機には反射的に行動する回路が埋め込まれてしまうから大変である。
子ども達の近くにいる時間が長ければ長いほどその回路は強化され、逃げられず、睡眠時間と神経をすり減らし、身を削ってゆき、子ども達は自分で育ったかのように飛び立ってゆく。
妻は専業主婦としてその流れの中でもがき、耐え続けた。
私がその貢献、人知れず払っている犠牲を評価を何らかの形できたはずの立場にいたはずなのに、できていなかった。
いや、しようとしなかった。私は子どもの世話、炊事洗濯を含む家事もできるので(皮肉を込めて)イクメンであると自負している。
量的にはシェアしていたかもしれない。
私が仕事をしながらでもできるのだから、妻はもっとと思ってしまっていた。
見るべきは仕事量とその負担感なんかでは無かった。
話が横道にそれるが、これって「働き方改革」の議論の主題の「仕事の量」のなんか的が合っていない感と根は同じ気がした。
そんな私の姿勢が発症の引き金を引いた。私が引いた。
私が「これが普通」と思っている常識、日常が妻を苦しめていた。
そんなことに乳がんになって2年以上たってからようやく言葉にできた。自分の常識から疑わないとだめだった。
ママ・パパ友の何人がなぜか同じことを、別々に言っていた。
「病を背負ったことには意味があって、この時、妻が乳がんになったことには、必要性と必然性がある」と。
つまり、必要だったから「もたらされた」のがこの病だと。そうかもしれない。
癌と戦うなんておこがましい。
実は癌に教えられていた。癌に導かれていた。
私は混乱の中、立ち止まった。立ち往生したままだった。そうする必要性があったのだろうと今は納得できる。
情けないが、おかげで気づいたこと、知れたこと、良かったことがたくさんあった。
身体の一部を失わされ、過酷な投薬治療を乗り越えてきている妻でさえも今はそう話をしている。
何なんだ、癌って。
なんか収拾がつかなくなってきた。いったん区切ろう。
次に2)の子ども達。
子ども達が何を求めているかは、以前よりもよく理解しているつもりではあるが、ネットワーク図には落とし込めない。
やっぱりよくわかっていないみたい。
在宅勤務で深まりつつあるこの「子どもは何がしたいのか」はまた別途分析しようと思う。
ところで、
こういった事象のつながりを画にして関係者と会話をしてみる、つながりを自分で考え直してみる、という作業は、一見データ解析とは関係がなさそうに思われるかもしれないが、これは実は一番大切なステップ。
ある課題に対していろいろな専門家が言っていて、それぞれがちょっとづつずれているような場合に、このツールを用いて会話すると、それだけで打開策が見えてきたりするもの。
かつて私はPowerPointで私は作成していたが、データサイエンティストの方にGraphvizを教えてもらってから愛用している。にFireAlpacaとWacom Intuos Medium CTL-6100WLを一緒に組み合わせて使う、というのは思いついてしまったので、試しているところ。
が、しかし最近別のデータサイエンティストの方と会話したら「私はMicrosoft Visioをずっと使ってきていますよ」ということ。
いろんな方法があるのですね。
でもフリーツールでできるとちょっとうれしい。