がん家系サラブレットとして産まれたからには

いつかは自分もがんになるだろうという覚悟はあった。



いつその日がきてもおかしくないはずなのに、あまりに無防備な生活をしていたと思う。


肉中心の食事、あきらかな水分の不足(昼過ぎから水分控えめにして夜のビールに備える毎日)、

運動不足、日々の生活への感謝の不足・・・

そして、一番悪いのは、自分の体への過信だ。



卵巣がんを患っている方や、身近な方が卵巣がんを患っている方ならご存知の通り、

卵巣がんの症状はほとんどないという。

サイレントキラーと呼ばれる卵巣がんは発見されたとき、そのほとんどが進行した状態だという。



私の場合、数々の偶然のおかげで、今があると思っている。



その偶然の一つは、子宮がん。

症状のない卵巣がんと一緒に、明確な症状のある子宮がんも発症していた。



2008年3月に不正出血、排卵痛、生理の異常を感じ、産婦人科へ行っていた。

しかし、その受診では子宮頸がんの検査をしただけで、特に異常なしとの診断。

その後も、それらの症状は治まったり、ひどくなったりを繰り返しながら、続いていた。

でも、一度病院で異常なしとの診断を受けた以上、再び病院へ行く気にはなれなかった。

自分の体を過信していた。



そんな中、二つ目の偶然が起こる。


一人娘まあは当時保育園年長。

私はまあの導きでかけがえのない友人を得た。

それは、4月からまあのクラスの担任となったAだった。

毎日やりとりされる連絡帳を通じ、担任と保護者という枠を超えて、

Aさんと私は親しくなっていった。


ある日の連絡帳に、こんなことが書いてあった。

「でこさん、私と一緒にもう一人産みませんか?私ももう一人欲しいと思っているんです。

一緒に子育てしましょうよ」

夫婦ともに晩婚で、38歳のときに流産していた私は、もう二人目は無理かなと思っていたが、

その言葉に心を動かされた。


それから、数ヵ月後、Aさんは妊娠した。

実は、Aさんは一人目の子のときは不妊治療に通い、

今回もそろそろ病院に行こうかと思っていた矢先の妊娠だった。

「奇跡の子」とAさんは言っていた。


「一緒に子育て」計画が、急に現実味を帯びてきた。

でも、ほんとにもう一人がんばるつもりなら、

あの子宮の不調をちゃんと治さないといけないな・・・



2008年10月30日、ちょうど仕事があいたので、急に思い立って産婦人科へ行くことにした。

実はその病院は38歳のときに流産した病院。

娘まあは別の総合病院で産んだのだが、

産婦人科医の減少で、紹介状なしで総合病院へ行くことはできない。

悲しい思い出しかないその病院で、また悲しい思い出が追加された。



すぐに総合病院への紹介状を渡された。



悪性腫瘍の可能性が高いと説明を受けた。



翌日、総合病院へ行くことになった。