決断するにあたっては、「基準」が必要になります。
今日は、やっていいことと悪いことの線引きをどういう基準で行うのかについて、考えてみたいと思います。
人間は、何も束縛が無い状態であれば、「感情」で決断することでしょう。
犯罪者が「ついカッとなってしまって」というセリフを吐くのは、テレビの中だけではありません。
普通の人でも、感情が高ぶって、我を忘れた行動に出ることはあります。
衝動買いぐらいで済めば、いいのですけれどね。
古代ユダヤ人は、行動の正し手を「宗教」に求めました。
一神教の神は、人間を超えた絶対的な存在です。
神の教えに従うことが、善悪を判断する基準となります。
中世のキリスト教信者、現代のイスラム原理主義者は、極端なまでに宗教を絶対視しますが。
欧米社会では、聖書が行動の基準として存在感を持っています。
古代ギリシャ人は、「哲学」に行動の正し手を求めました。
ターレスに始まり、ソクラテス、プラトン、アリストテレスと続く、有名な哲学者たち。
人間とはどういうものなのか、どう生きればいいのかを、探求しつづけた人々です。
古代ローマ人は、「法律」を行動規範としました。
宗教が異なれば、戒律も異なります。
哲学は、それを正しいと思わない人には強制できません。
ですが、法律であれば民族や宗教の違いを乗り越えて、人間の行動を正すことができます。
現在の大多数の国々が法治国家を名乗っているのは、そのためです。
戦前までの日本人は、「道徳」「恥」を行動規範としていました。
他人から、どうみられるのか。それが集団の行動規範に合致しているのかどうか。
武士は、そのために命をも賭して決断し、行動してきたのです。
現代の日本人は、何を行動規範としているのでしょう?
共通するものが、どうにも思い浮かびません。
法律に従った行動を取るのが当たり前、とされていますが。
校則に従わない生徒をどうやって説得するのかは、とても難しい問題になっています。
人間が感情ではなく理性に従った行動を行うこと、誘惑を断つ決断をすることは、実はとても難しいことです。
放っておけば、人間の「生き物」としての側面が頭をもたげ、感情の赴くままに行動するからです。
そうならないための行動規範を、何に求めるのか。
実は、決断するにあたっての根源的な問題なのです。
鹿児島市電(鹿児島県警プロデュースの広告)
