私の言葉尻、比喩表現に傷付けられた。
しかも、本人に何の関係もない話、
相手でさえない話で。
それを人格否定の理由にされた。
それは、アナタに、言葉尻を捕まえる以外の攻撃方法がない、落度が何もないからだ。
そう言ってくれた言葉に、救われた。
私が何をしたか
誰が何をしてくれたか
事実はそれだけ
やらなかった人の言葉は、
やらなかったことを正当化するための
詭弁に過ぎない
そう言ってもらえたことが、
私の救いになってる
私が心に止めておくのは、
私が、
誰のために、
何をしたか
誰が、何をしてくれたか
それだけで十分
父も言ってくれた
自分が、
できる限りのことをしなかった
と分かっているから苦しんでるんだ
それはアイツの問題だ
私達は
出来る限りのことを
惜しまずに尽くした
だから納得出来てるんだ
と。
働けない分の金を払うとまで言ったし、
渡したのに、見舞いにも来なかった
それが事実だ
と。
それも、自分は受け取らない
だけど、孫にやるという名目なら
黙認する
なんて詭弁
くだらない、言い訳
自分が責任取らずに済むように
自分の子供を出しにして
生贄にした
卑劣な行為
それを、自分の子供にできるんだから
その責任を、
自分の子供に押し付けられるんだから
どれほど卑怯な人間か、分かった
と。
私を
助けようとしてくれている人はいる
私が聞くべき言葉は
覚えておくべき言葉は
私の為に、してくれた人達の言葉
母のために、
できる限りを惜しまなかった人の言葉
自分を犠牲にしろという話じゃない
去っていく母の為にできる限り、
最大限だったか
惜しまなかったか
結局は、そこだったんだ
母の元に毎日見舞ったのも、
父と私。
カンファレンスに出て、
緊急時の処置はどこまで受けるか
話し合って
決めたのも。
母が家で過ごす最後の機会に、
家に帰る準備を話し合ってレクチャー受けて。
それを電話1本で反故にされて、
そのまま一生を
家に帰れなかったことも、
父と私は1言も責めず受け入れた。
誰が、何をしたのか。
私が、何をしたのか。
父が、何をしてくれたのか。
その事実だけを数えれば、
物事は簡単で明らかになる。
それで良い。
やらずに、
言いたいことだけ言う人の言葉は、
価値がない。
事実だけを見ていればいい。
事実は、変えられない。
事実は、言葉で歪めることはできない。
それさえ分かっていれば
良い