当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
こんにちは。今日は短歌を語ろうか。ブログも僕の心の言葉。
世界を自分らしく切り取る営みのすべてが「芸術」だと思っているんだけど、言葉を使った芸術のうち、著しく激しい制約のなかで微かな煌めきを感じられる性格を持つのが、俳句や短歌という日本古来からの“調”だと思うんだよね。
僕は表現をすることが好きで、様々な分野の芸術に興味があるから、やはり短歌を詠むというのも挑戦してみたことがあるよ。季語が必要な俳句より、かなり自由に詠めるというのが、短歌のいいところだと思うから、みんなも今日からすぐに、自由に短歌を詠んでみようと思えるような記事になるようにと、今回はそんな目標で少しお話しするね。
短歌の歴史
とても長い歴史があるものだから、かなり簡単に話すけれど、さらに興味がある人はWikipediaでも読んでみてね。
まず「うた」という言葉は何を起源にしているのかというと四つほど説がある。
- 手拍子を「うつ」から
- 思いを「写す」から
- 「うたがひ(疑い)」「うたた(転)」と同根
- 情感を「うったふ」「うれたふ」(訴える)
という感じなんだけど、「この情感を訴えるから」という説は折口信夫が提唱したもので、現在は有力な説とされているよ。
「うた」という漢字は、「歌・唄・譜・哥・詠・詩・唱・謌・謡…」などの様々な表記があるけれど、それだけ細分化して考えたいというこだわりを感じるよね。「歌」という漢字はもともと和歌を指していたんだけれど、現代では短歌は「詠む」と表現することが多いかな。
そんな和歌の歴史は、「古事記」や、元号『令和』の出典としても知られる「万葉集」といった八世紀の文献に端を発するよ。905年には醍醐天皇の命令によって編纂された「古今和歌集」なんかも作られて、とても重要な文化であったことが窺い知れるね。
さて、長すぎるからちょっと時代を一気に飛ばすことにしよう。こうして日本人の文化として受け入れられた短歌は、明治時代になると近代化の兆しを見せることになる。万葉調を重んじて写実的で伝統的な作り方をした「アララギ派」の権威化に抵抗を覚え、浪漫傾向に口語調で日常生活を歌う「反アララギ派」が登場するんだ。これによって、短歌の世界はとても自由になり、和歌の心と僕たちの生活が手を伸ばしさえすれば繋がるようになったんだね。
短歌の形式
ここで、一応、短歌の形式を振り返っておこう。
短歌は「五・七・五・七・七」の五つの句、合計三十一音からなる。
ちなみに音というのは、文字とは違うよ。「きゃ」とか「しゅ」みたいな拗音は一音で数えるし、「っ」も一音だね。こういう読んだときの拍数のことだと思ってね。
また、それぞれの句には名前がついているよ。
五音(初句)、七音(第二句)、五音(第三句)=上の句
七音(第四句)、七音(結句)=下の句
それから、短歌の数え方は「首(しゅ)」という。早速、一首作ってみようか。
例文に時間をかける意味なんて別にないから適当に書く
れいぶんに じかんをかける いみなんて べつにないから てきとうにかく
と、確かに「五・七・五・七・七」の形式になっているよね。
短歌には「季語」という季節を表す言葉もいらないし、どんな歌にするべきとかそういう制約もない。かなり自由なものだから、これだっていいんだよ。もはや「五・七・五・七・七」の形式を取らないものだってあるし、作者が「これは短歌だ」と言えば短歌なのかもしれない。そんな現代の自由な短歌の作例を少し見てみよう。
現代の短歌
有名な歌人による自由な短歌を数例並べてみるね。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
(笹井宏之)
コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい
(西村曜)
覇気のないドラえもんには適当な悩みを言ってあげたりしなきゃ
(篠田算)
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智)
そのひとは五月生まれで「了解」を「りょ」と略したメールをくれる
(土岐友浩)
「ヤギ ばか」で検索すると崖にいるヤギの画像がたくさん出てくる
(永井祐)
ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
(穂村弘)
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!
(石井僚一)
紹介したい短歌は、まだまだたくさんあるし、その方がこの記事も面白い気がしてならないけれど、僕の言葉で汚させてね。
こう見ると「日本古来の伝統文化」みたいな堅いイメージがあったかもしれないけど、本当に自由だよね。「そこにどんな意味があるのか」と、言葉の外にあるメッセージに思いを馳せることができるのが、とても面白いと思うんだ。鑑賞にしても作者のメッセージを正確に読み取ることより、自分らしい気づきや感動がそこにあれば素晴らしい営みな気がするよね。
短歌を詠むということは、自分がどのように世界を見ているのかという一例を見せることであって、それは芸術的な感性の賜物に思えるから、僕もたまにそんなことをするんだ。でも、こんなプロの後に、自分の短歌を紹介するのは恥ずかしいから…今回はここまで!
また今度、僕が詠む短歌の世界も見てみて欲しいな。それじゃあまたね。