当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
今日は七月七日。
都民ではないものの、都知事選の投開票日だ。今回はとんでもない人数が立候補しているなど、インターネットが普及した社会における選挙とは何かと考えさせられるものがあって、面白いなと思っているよ…。まあ、政治の話はやめといた方がいいか。
大丈夫。もう少し今日はかわいい話題についてだよ。小さい頃の七夕の思い出を話そうと思う。
よく笹の葉に短冊を飾ったりするけれど、あれってどれくらいの人がやるもんなんだろうね。色々ある年中行事の中でも、正月やクリスマスに比べると、あんまりやらない人が多そうだよね。
でも、織姫と彦星が会うみたいなロマンチックなストーリー、折り紙を使った飾り付けなど、幼い子どもたちにとっては楽しい行事である気がするよ。
特に願い事を書くというのには、僕も胸を膨らませていたことがあったな。
願いを書いた短冊を笹の葉に飾った経験は、今まで6回ほどある。
初めては文字も書けるかもわからない幼稚園に入るより前の頃、ショッピングモールでやっていたイベントに参加して、意味もよくわからず「だいすき」って書いたときらしいが、あんまり覚えていないな。それから、少し飛んで、年中、年長、小学校一二年生の頃は、幼稚園や学校で書いた覚えがあるよ。
ただ、僕は幼稚園児の頃と、小学生の頃で、かなり人格が変わっているような気がしていて、お母さん頼りでわんわん泣いてばかりいたのから、就学すると突然、いわゆる中二病みたいな「ありとあらゆることを斜めに捉えてやろう」とする人間になったんだよね。
それは、七夕の短冊にもよく表れていて、幼稚園児の僕は、自分を表現することが苦手で「どんな願いを持っているのか」ということを周りに知られるのも、少し恥ずかしがるぐらいだったんだ。だから当たり障りなく、健康を願ったりするのが精一杯だったけれど、小学二年生になると、打って変わって気持ちいいくらいにイキリ散らかしてしまった。そのことは今でも強く印象に残っていて、七夕が来ると古傷が疼くように思い出されるんだ。
「足が速くなりたい」「ゲームが欲しい」「テストで毎回100点」と、次々とクラスメイトの願い事が並んでいくなか、僕は一風変わったことを書きたくて仕方なかった。「他の小学生なんかと同じでたまるか」というような青い衒いに支配されていたんだね。右手に持った油性マジックは、硬く結んだ唇と同じように少しずつ乾いてしまう。それほど真剣に水色の短冊に向き合っていた。けれど、一人、また一人と、机を離れて、小さな笹に短冊を飾りに行っているのが、わずかな焦りを生んで、心臓をせっかちにしてしまうから、余計に“上手い願い”は思いつかなそうな様相を呈してきていた。むしろ、時間が掛かってしまう方が無能だと言われている気分になる。
そんななか、ある女の子が「私はそんなに叶えたいことないから『ここにある願いが全部叶いますように』って書いた。」と、友だちに話している声が聞こえたんだ。僕はそれに対して、小学生が書きそうな“ろくでもない願い事”よりはメタ的で面白いと、表情に出さずに感心して、さらにパラドックスを生じさせるものを思いついた。
ここにある願いが全部叶いませんように
それを書いていたときの僕は、きっと気味の悪いしたり顔を浮かべていたに違いない。彼女が望むように、ある願いが達成されたとすると、僕のこの願いは達成されないから、すべての願いは必ず達成できない。今思うと「ここにある願いには叶わないものが存在しますように」とした方が、きれいにパラドックスを生んでいるが、さすがに7歳のクオリティである。
それでも、人の望みというものは、誰かにとっては望まざることであって、全員が満足できる社会なんて決して形成されることはないのだということを暗に示しているような、メッセージ性に富んだ上手い回答だと当時の僕は確信して、湧き上がる感情に名前をつけたいものだったね。
しかし、そんな満足感は虚しく、飾ろうとするや否や担任に止められてしまった。とても優しく「こんなことを書いてはいけない」「みんなと仲良く」みたいな至極真っ当なことを言っていたが、その頃の僕には全く響かなかった。さりとて、今のようにベラベラと自分の思いを口で伝えるスキルも持ち合わせていなかったから、新しいピンク色の短冊を渡されると、言葉にできないまま、すんなりと受け取ってしまい、水色の短冊は軽く丸めて、乱雑にゴミ箱に放り投げた。「負けたくない」そんな思いを燃料に僕の頭はフル回転して、力を込めてこう書いた。
ここに飾られなかった願いも一つ残らず叶いますように
この短冊だけを見て、悪いものだとは思われず、ゴミ箱で丸まった僕の傑作を甦らせるための願いだった。もう一度、気味の悪いしたり顔を浮かべてそれを飾り、さらなる満足感を得ることができたことを覚えているよ。
数日が経って、笹の葉を撤去することになった日、初めに聖人君子のような願いを書いた例の女の子が、みんなの短冊を一つ一つなんとはなしに見ている姿があった。その後で、僕に向かって「あのとき時間が掛かっていたから、私の真似をしたんだね。」と、笑いかけてきたんだよ。本質的に全く違う意図を込めたのに、同じものだとされていることに腹を立て「違うよ!」と声を荒らげていると、面白がった男子たちからも「本当だ、真似してる〜」と揶揄われてしまうのであった。その日は星空も見えない雨の日だったことを覚えているよ。
奇を衒おうとするばかりで、最後には恥ずかしい思いをして終わってしまった七夕の記憶。それを最後に、短冊に願いを書くということはなくなってしまっていたんだけど、最近になって、子どもたちと関わることが増え、イベントを作る側になったもんで、せっかくならとこの前、僕にも短冊が渡されたんだ。
願いはそのすべてが「叶う」か「叶わない」かに価値を置くものではないと、今の僕は言うことができる。今までにない都知事選が行われたように、繰り返しを断ち切ろうと何かを望むエネルギーそのものが、未来の社会にとって必要だと思えるから。幼い頃の、微かに痛くて、仄かに苦い思い出も、僕を成長させてくれた大切なものだと溶かし切らないで噛み締めていたい。
僕はそんな回想をしながら、ゆったりと昔よりも整った文字で書いた。
みんながすべての願いに誇りを持てますように