当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

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 炎上って怖いもの?

 

 おでんツンツンしたり、店の醤油を舐めたりするのは、意図が分からないけれど、「作品」だと思うと僕はなんでも許せてしまうタイプで、知性ある人間として、自分が良いと思うものを丁寧に作り上げる魂に誇りを持つことこそが美しいと思うんだ。

 

 今回は僕の好きなものが炎上したときに感じたことを、ダラダラ書いてみるね。

 


 

 少し前に、Appleから『Crush!』っていうiPad ProのCMが出て、物議を醸したことがあったよね。

 

 

 これについて「物や文化への敬意が足りない」だとか「大企業が昔のものを潰していくかのようで不快だ」とか、色々な意見を目にした。

 

 僕は、Appleの芸術性にはいつも驚いていて、製品についてもスタイリッシュなデザインが大好きなんだ。それで、この広告を見ても「世界的な企業として言語には頼らず、たった一分間で、ここまでストレートにメッセージを伝えられている無骨な映像作品がAppleらしくて素晴らしい」とその映像美に感服した。

 

 僕の炎上センサーもプレス機にやられて、ぶっ壊れているかもしれないんだけど、なんの問題があるのか、あまり感じられなかったの。

 もはや世界のすべてを掌握できるほどの大企業であるのは言うまでもないし、楽器やカメラなどの映っているものは、デジタル化していっているのも事実なわけで、あれだけたくさんのものを「破壊」および「凝縮」して、その製品が誕生しているというメッセージ性はとても芸術的だと感じた。

 日本ではよく「もったいない」なんて意見もあったけど、六畳間で誰に聴かせることもなくダサい音色を出すことに終始するギターよりは、この映像作品の完成に一役買ったギターの方がよっぽど価値がある気がするよね。

 

 もしかしたら僕は、みんながどうこう言っているのを聞いて、それ自体も思案の材料になって面白いと感じている部分もありそうだけど…。こういうどこか考えさせられるような鑑賞と呼べる体験が大好きなもんで「商業に向いてない性格だな」とも、心から思っているよ。

 

 それでも、広告というものは「製品を売るため」という明確な目的があるわけだから、大衆から反感を買って、その目的が達成し得ないなら存在意義はないのかもね。

 とはいえ、この映像を作った人たちは、特に売れて欲しいと望んでいる人とは別の軸で考えているだろうし、その芸術的表現のこだわりが蔑ろにされてしまうのは、かわいそうだけれど、大衆は挑戦的なメッセージよりも、特に波風を立てない、それ以上でもそれ以下でもない“情報”を望んでいるんだから仕方ないね。

 

 それを踏まえると、大衆に芸術を面白がれる素養や心の余裕がないのが問題なのかもしれないと思えてくる。民意を変える力はこれからの時代の形成者となる子どもたちへの教育にかかっているんだろうと、僕なんかは思えて、道徳教育をはじめとした学校教育全体で目指す「理想の生徒像」を、さらに念入りに形造る必要があると感じるんだよね。

 


 

 広告だと大衆の民度を見誤ったせいで意味のない作品になったということもあるかもしれないけれど、純粋な音楽という芸術の場でも、Mrs. GREEN APPLEの『コロンブス』は叩かれてしまったね。(問題のMVは非公開にされてるから曲だけ載せるね)

 

 

 これも、コカコーラのタイアップがついていたから、商業的な力が働いてしまったのかもしれないけれど、音楽という表現においても自由を認められないというのには、少し悲哀さえ感じてしまったな。

 

 動画もないし、知らない人のために説明しておくと、MVでコロンブスらが類人猿に文化を教えたり、人力車を牽かせたりしていることなどが「奴隷商人であったコロンブスを賛美している内容だ」「アメリカの先住民を猿扱いしている」などという批判を受けたんだ。

 当人たちからは「ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをする」という内容を意図して作られたという弁明があったけれど、数学ばかりやってる世界史に明るくない僕でも、先住民と類人猿を重ねるのは妥当な見方だと思ったな。

 炎上を避けるために言っただけかもしれないが、すぐにMVを取り下げるのも相まって、安っぽく思えてしまい、それは残念だったと思う。アーティストたるもの、屈強な意志を持って自分の表現に絶対的自信を持っていて欲しい。大人の事情ってやつは憎いね。

 

 でも、やっぱり僕の炎上センサーはぶっ壊れているもんだから、ものすごい批判を受けている内容を理解できても、革新的で面白い表現だと感じてしまうんだ。とてもポップで明るい曲でありながら、コロニアリズム(植民地主義)を丁寧に扱い、善悪が社会通念や置かれた立場からの見方にしかよらないということを暗に示していて、見かけとメッセージ性の深さに乖離がある内容だと感じたし、アメリカを代表するようなコカコーラのタイアップであることも、差別されていたネイティブアメリカンとの対比になって、意義深いように思えた。

 

 当時、ネイティブアメリカンをコロンブスらが“猿扱い”(どころか、もっと凄惨な支配を)したのは事実であって、マイナスな事実を描写すること自体に問題があるのだとしたら、ピカソのゲルニカだって悪くなる。それに歌詞では「「ごめんね」それは一番難しい言」というように、非難するべきことであるとしているように見受けられるし、MVの「類人猿が出てくる悲劇を鑑賞して涙する」というシーンは、他者の文化への理解によって生まれる力を表現している気もしたな。

 

 また、一曲のなかで「君」と「あなた」という異なる二人称が出てきて、「あなた」をコロンブスのことだと捉えると、落ちサビの歌詞は面白いよ。

あなたとの相違は
私である為の呪いで
卑屈は絶えないが
そんな自分を
本当は嫌えない
あぁ 愛すべき名誉の負傷が
盛大に祝われる微妙が     
大切な様な

 これは、僕ら日本人(私)が敗戦し、卑屈になりながらも内心では西洋に憧れているというようなことを言いたいようにも取れるし「盛大に祝われる微妙」という表現は、英雄扱いされていたコロンブスが時代の流れで「微妙」になってしまうというメッセージにも取れる。とてつもなく売り出されている今のMrs. GREEN APPLEのことも重なるかも…

 

 こう思うと、朝のニュースでは「Mrs. GREEN APPLEの新曲です」と楽しげに取り上げ、夕方のニュースでは「不適切な表現であった」と、大衆の意見に流されているメディアや僕らの捉え方そのものが、作品の一部なようにも思えてきて、「これで作品が完成したな…」と、なんとなく僕は炎上そのものに感心していたよ。

 むしろ本人たちがこれを意図していないと表明してしまったり、やはりその炎上に怯んで非公開にしたことなどが作品の価値を下げていて惜しいな。

 


 

 『Crush!』にしても『コロンブス』にしても、製作者自身が届けたかったメッセージは、さほど過激なものではなかったんだろうけれど、僕としては、戦争を助長したり、原爆を落とせなんて伝える内容だろうが、特定の民族や障害者だとかを排除するべきだとする内容だろうが、もはや名指しで僕を攻撃する内容だろうが…どんなものでも芸術の文脈では面白いと思えてしまう。もちろん、それを悪いと思うのも自由だし、批判のない文化は衰退していく運命にあるから、明確に根拠を示して批判をするのは、素晴らしいことだと思うんだ。

 

 逆に「炎上」の問題点はその稚拙さにある。丁寧な批判というのもなかなか知性がいることで、それが足りないと、ただの中傷でしかなくなる。

 

 次世代の人類が知性溢れる多様で多彩な文化を形成するには、芸術が画一的にならないように、違いを力にできる社会として、さまざまなものが受け入れられるべきだと思う。批判は文化を発展させるが、中傷はむしろ違いを無くそうとする力として働いてしまうんだ。

 他者の意見や表現を内容に関わらず望んで、冷静に話し合い、どんなことが起きても全体は「おもしろい」と感じられる豊かな心・人間性。それを育んでいくことが、炎に群がって尻尾がなくなってもよく吠える僕らの文明を、次のレベルに運ぶために、大切になっているんだろうね。

 

今回も、最後までご高覧いただき、どうもありがとうございました!

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