海軍操練所閉鎖により龍馬たちは行き場を失いました。

龍馬は薩摩藩の庇護の下、長崎で亀山社中とう会社を作りました。

亀山社中には、沢村惣之丞、近藤長次郎、陸奥陽之助(陸奥宗光)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池内蔵太、小曾根英四郎、中島作太郎(中島信行)、新宮馬之助、白峰駿馬などがいました。

亀山社中は海軍、航海術の修行期間などの顔を併せ持つ特異な組織でした。


しかし、近藤長次郎がイギリスへ密航を企てた事が発覚し、小曾根邸で切腹する事件や、池内蔵太がワイルウェフ号を回航する途中で台風で難破し死亡する事件などがありました。


1866年、龍馬は薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させました。

これで幕府に対抗できる勢力が誕生しました。

しかし、龍馬は幕府から危険人物としてマークされる事になりました。


薩長同盟の2日後、龍馬は寺田屋に泊まっていました。

伏見奉行所の役人に踏み込まれました。

お龍は必死で薩摩藩邸へ龍馬の危険を知らせに行きました。

味方の三吉慎蔵に助けられ、薩摩藩邸へ逃げ込みました。

龍馬は親指などに傷を負い、薩摩藩邸でお龍に看護を受けました。

その後はお龍と結婚し、西郷隆盛、小松帯刀の勧めで薩摩の霧島へ新婚旅行に出かけました。


1867年、龍馬は土佐藩参政の後藤象二郎と清風亭で会談しました。

後藤象二郎と手を結び土佐藩に復帰しました。

亀山社中は海援隊と名前を変えました。龍馬は海援隊隊長に就任しました。

岩崎弥太郎は海援隊の経理を担当しました。


1867年、海援隊が乗船していたいろは丸が紀州藩の明光丸と沈没し、沈没する事件が起こりました。

龍馬は談判で、紀州藩に賠償金の請求しました。

紀州藩が8万3千両を支払う事で決着し、事件は解決しました。


1867年、龍馬は後藤象二郎、長岡謙吉と共に夕顔丸で長崎を出航し、京へ向う途中で船中八策を作成しました。 大河ドラマでは龍馬が書記していましたが、実際に書記したのは長岡謙吉です。


後藤象二郎は船中八策を土佐藩主 山内容堂に進言し、容堂が将軍、徳川慶喜に大政奉還を建白し、これを徳川慶喜が受け入れ、政権を朝廷に奉還しました。


最終回、龍馬暗殺へ続く・・・