1862年龍馬は脱藩し、長州に着いた。
龍馬はこの年の秋、勝海舟の弟子となりました。
龍馬は、勝海舟を斬るつもりで訪れましたが、勝海舟の才能に惚れて弟子になりました。
勝海舟は、神戸に海軍操練所を建設し、勝海舟の私塾に入門しました。
海軍操練所の塾生には、土佐脱藩の望月亀弥太、北添佶摩、近藤長次郎、甥の高松太郎、新宮馬之助、千屋寅之助、安岡金馬がいました。
その他の塾生には、紀州の陸奥陽之助、越後の白峰駿馬、薩摩の伊東祐幸などがいました。
勝海舟の使いで龍馬は1864年に西郷隆盛と面会しました。
その年に、神戸海軍操練所は閉鎖になりました。
その年に、池田屋事件が起こりました。
その中には海軍操練所塾生で土佐脱藩の北添佶摩は新撰組の一撃で倒れ闘死、望月亀弥太は脱出するも自刃しました。池田屋事件では数名の志士たちが襲撃されて死去しています。
その4へ続く