龍馬は1853年に江戸の千葉定吉道場に入門しました。

同年にはペリー来航により、品川海岸の警備に動員されました。

同年に佐久間象山の塾で砲術を学びました。


1年後に土佐に戻り、河田小龍を訪ねました。

龍馬は攘この時から、海に関心を持つようになりました。


1856年、父の八平が死去


武市半平太が土佐勤皇党を結成すると、龍馬も勤皇党に加盟しました。

この年に武市の密書を持って萩の久坂玄瑞の元を訪ねました。

「これから草莽の人々(志のある在野の人々)が立ち上がらなければいけない」

と教えられました。


1861年に、龍馬は同志の沢村惣之丞と脱藩しました。

この時に龍馬に銘刀を与えた責任を負って姉の栄が自刃しました。


その3へ続く