学生「それを学んだことによって、わたしにどんな得があるでしょうか。」
エウクレイデス「かれに3オボロスの小銭をおやり、かれは学んだことから利益を得なければならないのだから。」
共立出版の「ユークリッド原論」を読んでいたところ、上記のやりとりが書かれていた。
短いやりとりながら、中々考えさせられる内容である。
このやりとりの意味するところは、エウクレイデスにとって学問は「手段」ではなく「目的」であるということだろう。
しかし、多くの人にとっては学生の考えの方が感覚として近いはずだ。
この点については古代ギリシャの世相が大いに関係しているはずである。奴隷身分を兼任しているわたしたち現代人は、その多くの場合エウクレイデスのように学問に打ち込むことはできない。
それはそれとして、わたしたち現代人は勉強を「真理の追究」や「娯楽」のためではなく、利益(生活費を含む)のためにしているという点を否定できない(この記事では、「勉強」と「学問」をあえて区別しない)。勉強をしておかなくては、いざという時に対応できる可能性が減ってしまう。少なくとも、そう感じるだろう。
この問題はバランスにあると思う。
現代人が「真理の追究」や「娯楽」だけに打ち込める環境を得るのは非常に困難であり、大きなリスクも伴う。そのため、生活費を確保しつつほどほどにそれらを楽しむのが堅実的だと感じる。
ただ、わたし自身は「ユークリッド原論」が全く理解できないし、それを理解しようという努力すら放棄している現実がある。理由は、まさに上記の学生のコメントそのもの。原論を学ぶことのメリットが分からないのだ。そのメリットが特大なものであれば取り組むだろうが、その姿勢がそもそも間違っているとエウクレイデスは説いている。わたしに欠けているものは、自分が損得勘定抜きで追求できる「何か」なのだろう。