昨日読み終えた「寄生獣」完全版1巻の「読者の問いかけに作者が答えた。」コーナーの中に、以下の一文があった。
「漫画も映画もそれぞれ独自の生命力、しなやかさをもっているので、つまらない原作でも映像化したとたん輝きだしたり、またその逆もあるかと思います。
私が面白いと思った映画はたいがい始まりから終わりまでまるで一つの生き物のようにまとまりを持っています。
作り手が、原作を完全に自分の血や肉としたのち、切れ味よく表現しているからでしょう。情熱のない他力本願は駄作のもとというわけです」
(岩明均氏)
この最後の1行にある「情熱のない他力本願は駄作のもとというわけです」という言葉が妙に心に残った。なんというか、わたしの人生そのものを端的に表した一言だと感じた。
情熱は、言葉では何となく分かるが、実感としてはほとんど持った記憶が無い。
本気で何かに夢中になり続けられた記憶がないというか、よく研究者や芸術家が言うような寝食を忘れて没頭した経験というものがわたしには全く無い。
これは、わたし自身が自分の人生についてどこか他人行儀であることの現れであるような気がする。
保育の経験から言えば、幼少期というのは必ず何かしらに夢中になることがある。
モンテッソーリ教育で言うところの「集中現象」と言っても良い。
ただ、わたしは物心が付いた時点でこの集中力はすでに失われてのかもしれない。
何せ幼少期のことであるから確信はないが、おそらく「集中現象」が起きている時に外部から横やりを入れられまくったのだろうと思う。もっとも、そんなこと言えばほとんどの人がそうだろうが。
「情熱」はマズローの欲求段階の1つである「自己実現の欲求」に通じると思う。
この辺りについても改めて意識していきたい。
「寄生獣」を読んでいてもう1つ思ったことがある。それは、時代の重要性だ。
この漫画は1990年から連載であるが、今時ありえない不良生徒の存在が当然のようにある。
この不良は、同じく1990年から連載された「スラムダンク」や「幽遊白書」(こっちは中学生)でも見られ、当時は当たり前に存在したと考えられる。
この不良生徒の存在を1980年~1990年で15歳の人と想定すると、その生まれは1965年~1975年。これは概ね高度経済成長期(およそ1955年~1973年)に重なる。好景気の中で生まれながら、中学生になる頃には社会に閉塞感か何かでもあったのだろうか?
1986年~1991年の間はバブル経済。1993年~2005年は就職氷河期。
そして、これらの世代は現在はだいたい49~59歳。バブルの恩恵と崩壊の絶望を両方経験できる辺りである。この辺りの世代とわたしの世代とのギャップはとにかく大きい。というか、この世代は「仕事があるだけありがたいと思え!!」という時代で鍛え上げられたから、若者からすると凄まじい低リターンで働けるのではないだろうか?
だとすれば、絶対にわかり合えないのも頷ける。
この辺りの子どもの育ちを学べば、少しはそのギャップを埋めることができるかもしれない。