DBTと禅 | komorebiのMyブログ

DBTと禅

M.リネハンは自傷行為や自殺企図に悩む境界性パーソナリティ障害の治療のために弁証法的行動療法(DBT)を開発しました。

彼女は、禅のマスターであるベネディクト派の修道僧から禅を修得し、DBTに応用したと言われています。

DBTの特徴として、精神分析をはじめとしたこれまでの精神療法の主眼とされていた変化や西洋的自我の自立、確立といったものをあえて対立項(アンチテーゼ)のように位置づけ、受容と東洋的認識(マインドフルネス:いまここにあることものをあるがままに受け入れ気付くこと)に重点を置いた点です。

ただ、気を付けなければならないのは、CBTをはじめとした広義のCBT(認知行動療法)はエビデンスベースド(証拠に基づいた)ならないのは科学的手法である点で西欧的自我や認識論を拝しているわけでない点で、古来から日本にある禅の思想である不立文字(ふりゅうもんじ:言葉によって説明することで本質が失われることを恐れる)に矛盾する、あるいは限界がある点です。

ただし、僕の好きな臨済宗の芥川賞作家の禅僧、玄侑宗久さんの著作にしばしば登場する、「性格を変えたければ何か新しいことを始めればいい」などは、極めてDBT的であろう。

また「日日是好日(にちにちこれこうにち:いい日も悪い日もそれはそれでよいではないか)」、「花は紅、柳は緑(はなはくれないやなぎはみどり:花は赤、草木は緑であるがままが美しい)」のような認識はそのままDBTに使えそうである。

つまり、僕が言いたいのは、リネハンのDBTなどをかじって禅をわかった気になるのはちょっとおこがましいですよ、でも日本の禅を少し学んでからDBTを眺めると難解と言われるDBTも少しわかりやすいのでは、ということです。

ヘーゲルの弁証法については、僕が大学の哲学科時代少し勉強しましたが、やはりなんでもかんでも無理矢理アウフヘーベンしてしまうところに違和感というか、不自然さを感じたものです。

前出の玄侑宗久さんも、禅では二元論や二項対立などの思慮分別をもっともバカにしている、ということを繰り返し強調しています。

私も繰り返しになりますが、DBTを学ぼうとされている日本の臨床家の皆さんに言いたいのは、リネハンが難解だ、日本の治療風土にどうしたら馴染むようになるかなどに悩むより、せっかく日本にいるのだから、まずは日本の禅を学びましょうよ、そしてリネハンにそこはちがうんじゃないですか?と言えるくらいになりましょうよ、ということです。

昨日も書いた通り、いま僕が病棟でCBTを受けている看護師さんの恩師はリネハンの元で直接DBTを受けてきたといいます。その看護師さんも、日本独自のDBTの必要性を感じていると言っていました。

もっとも、まだリネハンの著作を読んでいない僕がここまで言うのもおこがましちですが...(苦笑)