これは、僕たちの教会のホームページのURLです。
多くの方々に見ていただき、お祈りにおぼえていただき、本当に感謝しています。
副牧師である僕は、このブログでいろんなことを分かち合わせていただいていますが、
牧師の佐藤彰(同じ佐藤ですが、たまたまです。よく聞かれるので…
)は、
教会のホームページ上で、時折避難生活報告を更新しています。
ご覧になってくださっていますか?
昨日更新されたばかりの牧師の文章を読んで…
なんだか僕が泣いちゃいました![]()
もう涙はずいぶん流したから、大丈夫だと思っていたけど、
やっぱりフッとした拍子に、涙が出てきちゃうものですね![]()
もしかしたら教会のホームページはなかなか見れない方もいるかもしれないと思ったので、
今日はこのブログを通して、牧師の避難生活報告を紹介します。
ちょっと長いですが、読んでみてください。そしてお祈りください。
避難生活報告 その42
日曜夜、電車で奥多摩に戻ろうとしています。
明後日は、再び防護服を着て閉鎖中の警戒区域内のチャペルに入ります。帰るたびに、故郷も自宅もみるみる廃墟と化す姿にがく然としています。多くの人が、もう駄目だと、きっと落胆していると思います。本当に、一切が夢だといい。そして、夢ならば頼むから覚めて欲しい。いい加減、平穏な日々を取り戻したい。ゆっくり茶の間に寝そべって、新聞をひろげ、あくびをし、日がな一日を過ごしてみたい。そんなほのかな望みも、まだ当分かないそうにありません。
連日、賠償請求の書類を揃えたり、避難に伴う事務処理等に明け暮れる日々に、うんざりしています。一体この先どれ程のエネルギーを、これら本来しなくてもよかったはずのことに費やすのでしょう。
冬の終わりに始まった一連の震災は、いつの間にか月日を一巡し再び冬の到来を迎えようとしています。よくも震災渦中からここまで生き延びたと感慨深く思う反面、これほどに長引いた震災のその後に、げんなりしています。「これ切りにしてほしい。冗談抜きに、ピリオドを打ってほしい。きつくて、悲しくて、限界点をとうの昔に超えている」と、どこかの誰かに向かって訴えたくなって、やり場のない叫びを持て余しています。
とは言え、まだ当分の間、この旅は続きそうです。だから今は、気を取り直し、住まいを失ったご年配の方々と、体調のすぐれない方々のための、緊急のアパートに造りに専念することにします。立ち止まって物事を深く考え始めると、果てしもなく深みにはまいそうな気がするので。
その意味では、激務は悪くないかもしれません。思いをいちいち潜める間もなく、行動から行動へ、決断から決断へと、駆り出されるように迫られる現実の中に、神様のご配慮があるのかもしれません。とにかくアパート建設と、チャペルの建設に、今は集中しましょう。
そういうわけで、多くの方がご心配くださっている私の健康も、今のところ一度も体調を崩すことがなく、守られています。その要因の一つに、激務もあるのではないかと考えています。絶えず気が張っているので、私の健康を支える一因となっているのではないか、と。
ところで突如として建てることになった今回の建物は、私が25歳で牧師になってから、ちょうど十番目に当たる建築物です。「私は建築屋ですか」と、いつの日か神様に訊いてみたい気もします。本来は、新会堂を建築したあの3年前に、建物を建てるのはこれで最後、と自ら決めたはずでした。あの時、すべて力も出し切ったはずだし。けれどもどうやら、私の判断と、神様の見立てとは、どうやら違うようです。ここにきて、再びチャペル建設と、初体験となるアパート建設に取り組むようになろうとは、まったく人生はわからないものです。震災以降、家庭環境から、仕事の内容まで、人生の紋様が、大きく様変わりしました。
とりわけ今回の建築は、私たちがこれまで経験したことのない、見切り発車です。実は私たちの教会、これがいいのか悪いのかわかりませんが、今までとにかく銀行借り入れをした経験がありません。その都度与えられた献げもの範囲で、八つの建物を建て続けてきました。だからその都度、更にそれに続く次なる建物建設にチャレンジすることができた、とも言えます。信仰によってささげられたもので、建ててきたと。他方、見方によっては、余り無理をせず、そこまでの冒険をしないできた、と言えなくもありません。
けれども今回ばかりは、そうも言っていられません。あの激甚災害の中、緊急事態が発生したのです。アパートも教会も、今目前の必要です。ですからこれも、思いもかけない震災がもたらした、新しい世界の創造と受け止めましょう。資金ゼロからのゴーサインは、思い切って水の上に一歩繰り出すようにとの、神様からの招きでしょうか。震災このかた思わぬこと続きで、毎日がドラマ仕立てなので、3月11日以降8カ月目も過ぎたというのに、非日常の出来事にいまだ慣れ切れず、日々戦々恐々しては、その都度驚いてばかりいます。
一方、何とかなる、との予感もあります。というのも、ここまでの道のりの中で、すべての必要をゼロから満たして下さった神様に、その都度出合ってきたからです。先日も、手続きの上でも時間的にも、無理だと思われたある役所関係の許可が、もうだめかと肩を落とした直後に、突如降りました。本当に、一喜一憂の感激はありますが、心臓には良くないような気がします。もちろん、担当してくださった役所の方々や、神様には感謝しています。
ですからきっとこれからも、このペースですべてが何とかなるのではないかと直感予感しています。そもそも、翼を半分突然もぎ取られた状態で、よくぞ教会はここまで落ちずに、とにもかくにも飛んできたとの感心があります。いわば片肺の状態でも、それでも生きている感激です。
ところで、今まで私はてっきり子どもたちのことを、いつも屈託がなく、震災にもめげず、たくましく生きている、と表面的に見ていました。けれどもある日、夜になると布団の中で背を向けしくしく泣いている子どもたちの話を聞きました。考えてみれば、突然友達や故郷や学校を失って、一人ぼっちで転校を繰り返す出来事に、傷のつかないはずもありません。私は、子どもたちの心を甘く見ていました。誰もが、当然のことながら、深く傷ついています。
実は、我が家の愛犬も、寂しく被災の日々をじっと耐えています。このところ、私たち夫婦が余りに多忙で、留守にすることが多いため、急きょ息子のアパートに預けることになりました。その後そこからまた、時折やむなくあちこちのお宅に、お世話してくださるいろんな方の所に、預けられているようです。私たちの手を完全に離れ、犬にはすまないとも、皆さんには有難いだとも思っています。
ところで、我が家のその愛犬、13年前佐藤家にもらわれて来て今は年老いて、目は白内障で耳もすっかり遠くなってしまいました。晩年になってからのこの被災は、彼の目にどの様に映っているのでしょう。震災この方、あちらこちら連れ回され、飼い主とは訳もわからぬ中、別れ別れとになり、それこそ大震災の大波小波に翻弄され続けてきました。
先日は、そんな我が家の犬が急に不憫に思われ、やっとのことでスケジュールの合間を縫って、夜遅く3、40分間、逢いに行きました。しかし、「来たよ」とドアを開けても何の反応もなく、しばらく抱く寄せた後も、すぐ息子の後追いをし始め、何だかよそよそしく遠巻きに元飼い主の私を(?)じっと見つめるのでした。彼も確かに、深く傷ついているようでした。初めて経験する微妙なその距離感は、何とも言えず物悲しく、彼が初めて見せたそんな態度は、まるで自分がどれ程辛いかを、切々と訴えているようでした。
「ごめんね、パピ(愛犬の名で犬種はパピヨン)。震災だから、ゆるして」と、謝ってみても、「そんな気休め、かえって戸惑う」と言わんばかりに、再び私を玄関で見送る目線は、「やっぱりまた、ボクのこと置いていくんだ。これ以上傷つきたくないから、心は開かない」と、物語っているようでした。
震災は、あらゆる絆を非情にも引き裂く、残酷なものだと改めて思い知らされたのです。
「ごめんね、パピ。だけど、待ってて。パピは決して見捨てられていないから。震災が、こうしたんだ。だから、お父さんのことを、もうそんな目で見ないで。疑わないで。絶対迎えに来る。だから、その時まで、元気でいてね。今度逢ったとき、思い切り、急いで走り寄って、抱きついてきて。今までできなかった分まで、罪滅ぼしに、いっぱい撫でて、抱きしめてあげる。だから、甘えてね。震災が終わったら、またいっしょに住もう。その時まで、辛抱して。忘れていない。パピのお父さんより、愛しいパピへ」
こんな手紙、書いても無駄か……。
11月1日(火)に綴り始めたはずのこのダイアリ―は、しばらくの間放っておかれ、後日談を付け加える形で、今頃アップすることになりました。細切れの時間を見つけてなので、仕方のないないことと割り切っては、独りごちています。お許し下さい。
今ここは、富士箱根を後にして、書き始めから十日も過ぎた、佐賀に向かう飛中です。
まったく、東北の漬物でもあるまいし。漬けすぎて、酸味が出てるかも。
どうしよう。
それでも、アップ、する?
11月10日 羽田~福岡便内にて