大戦中小学四年生の生活の記憶
令和2年6月23日 父が他界しました。
2年前より肺がんを患っており、最後は呼吸器不全を起こしたようです。
最後に顔を見て話したのは、4月27日です。コロナによる緊急事態宣言下でしたが、出張から足を延ばし、家には上がらず玄関先から離れて30分ほど両親と話しをしました。
色々と整理しているところですが、大戦中小学四年生の生活の記憶と題した手紙が出てきました。
そこには、鹿児島県南種子村茎永と言う集落にて、
学童疎開の話へと進み、鹿屋・知覧を爆撃したB29が沖縄へ
疎開先の出来事が濃く書かれている。
ちなみに当時の疎開が縁で交流行事やってるみたいです。
http://www.furusato-tanegashima.net/tanegashima/misc/keinan/kesyo-honmyosyo-koryu2019.html
少し原文を
疎開先のお婆さんは一人暮らしで50才位、
赤痢に罹患するも、連日、日が落ちるまで休ませてくれない。
終戦を知った鬼婆が、奥山に隠れ場所の穴掘りに行くと言い出したが、私の方こそ山奥に連れて行かれたら怖い気がして逃げ道を考える日
相当キツい環境だったようです![]()
あと不満だったことも書いてありました。
この疎開に同行した先生や保護者代表の女子青年が、我子や弟妹を裕福な家
以来、
自衛隊に入隊してみると行く先々で税金どろぼう呼ばわりで、日本国民、
自分のことを動物人間と評して、社会への不満と自らの反省の様に読みとれました。
我が家は母も種子島出身で、生家が寺であったことから、疎開は熊本県河浦町の本家の寺だったそうです。父の壮絶な経験とは違い、いとこ達で集まり楽しかったとのこと😂






















