あまり定期的に記事を書こうという意思はなかったのですが、「理想論パラダイムみたいな話が取れたとして、そのパラダイム上で財源の議論の排除とかDA排除みたいなアファのやりたいことはできなくね?」みたいな方面の応答が多かったので、そちらについても少し触れておこうかなあと思います。最終的に今回のベーシックインカム論題において財源の議論を排除できるという主張を支持するみたいな論考ではなく、ディベート上での”実行可能性”って何なんだろうってことをシーズン中に読んだエビデンスを紹介しながら考えつつ、それと関わって”論題を肯定する”とはどういうことなのか、思ったことを書こうと思います。
例のごとく特に結論を出さずに思ったことを丸投げしながら、いろんな人の意見を聞く起点づくりにしようというモチベーションで書いてます(これを言えば分析が多少拙くても許されると思っている節がなくもない…)。まずTwitter上とかでいろんな人が書いてくれた批判や意見を要約しつつまとめます。このへんの話はTwitter上だと流れてしまって残りにくいので、ログの機能としても。そのあとで、”実行可能性”とは何なのかということについて、政治哲学の論争(俗にいうロールズ・コーエン論争というやつです)を参照しながらディベートと絡めつつお話しできたらいいなあという感じです。最後にもう一枚試合で読んでいた(反駁次第で読むことがあった)エビデンスに触れつつ、それを入り口に”論題の肯定”とは何かについて、思ったことを書こうかなあという感じです。例のごとく資料や立論中からのの引用があれば斜体でやります(情弱なのでなんかいい感じに箱みたいなやつにいれたりするやつのやり方が分からない…)。
1) 理想論による論題肯定に寄せられた批判
・財源は後で考えればいいという立場は、あらゆるDAは後で考えればいいという立場にならないだろうか。後で考えざるを得ないのであれば、affは実際にどうやってDAを起こさずにその理想のプラス面を実現するかを述べるべきで、そうすると結局プラン的なものが必要になるのではないか。
・実行可能性の排除は、条件付きの別の論題の肯定ではないか。
・「日本」「制度」という文言は政策形成パラダイムを支持している。
・財政の話は理想に直結する。
・パラダイムは、ジャッジがどうやって議論を判断するかという枠組みなので、少なくとも同一試合では複数並存し得ないと解すべき。これはジャッジの専権。
まとめると以上の点に集約されるかなあと思います。他にもあったらまだまだどしどし寄せてください。一旦この話は置いといて、肯定側の議論について詳しめの説明をしたり、実行可能性について立論から離れて詳しいお話をしていこうと思います。
2) ”実行可能性”って何だろうか
実行可能性の排除という話により財源の議論を無効化する、という試みが実際に試合の中でどうなされていたのか説明が少なく、人によって受け取り方に差があったように感じます。まずはその試みが成功しているかはさておき、少し細かめに肯定側の議論の説明を加えておきます。
一応試合の中での方向性としては財源ガン無視、というよりは「財源確保の方法は今すぐに実行可能なものとかに絞って議論する必要はない。とにかく財源を確保できる可能性が示せれば、理想として設定することはできるはず」みたいな感じで議論していました。例えば相続税100%とか資産課税とかAI資本に対する課税とか天然資源とかのような、「今は絶対無理だし課税逃れの手段もたくさんあるが、なんとかそこをクリアできれば制度は可能」みたいな財源の例を挙げていく感じです。そのため肯定側の議論における”実行可能性”とは短期的な視点でプランが設計可能かどうかというworkabilityの議論を排除するものだったといえるかもしれません。結局のところ財政DAみたいな議論は国債をするor所得増税等で国民負担率が上がることを前提にしているので、そうではない財源確保の方法が想定できる場合は肯定側の”理想”を否定していないのではないか、という趣旨の議論です。試合でも「飢餓のアナロジーの場合も、今すぐに実行可能な方法に限定して考えれば、国際刷りまくるとか富裕層からお金ぶんどるみたいなよくない方法しかないかもしれないけど、それでも元の命題が偽だ、とはならない」という話を再三繰り返していたことを思い出します笑。とりあえず、この主張が受け入れられるかどうかは別として、”実行可能性の排除”とはこんな感じの意図だったらしい、まずはそこが分かればオッケーです。
さて、前回の記事では第一立論のうちの一部だけを抜粋したという影響もあるでしょうが、おそらく”実行可能性”という語がはらむ多義性が、僕と記事を読んだ方の間での認知のギャップの原因であるように思います。ようやく本論となりますが、”実行可能性”について政治哲学上の論争を引用しつつ考えていこうと思います。以下、この項での斜体での引用はすべて「松元雅和(2015)『応用政治哲学―方法論の探求―』、風行社」からです。
正義原理を導出するにあたっても、何らかの条件を所与の制約として設けることになります。正義原理は、今回の肯定側の立論で言う”理想社会”にあたるものだといえるでしょう。まずこれについてロールズの見解を見てみましょう。
具体的に、正義原理を導出するにあたり、所与の前提として念頭に置かれている現実は多岐にわたる。例えば、人々は自らの生活様式について互いに還元不可能な多様性を有している。正義原理の及ぶ範囲はさしあたり現今の国民国家に該当する自足的な連合体に限定される。一夫一婦制の家族制度、子供の個別的養育、何らかの市場経済の存在、人生に資する汎用的手段としての基本財が存在していること、等々が前提とされる。なかんずく、ロールズ正義論の基本的前提となっているのは、資源の希少性と利他心の限定性という現実(=正義の情況)である。このように、「正義の様々な構想は、私たちが知っているままの暮らしの条件によって正当化されなければならない」。
もちろん、こうした現実を全て取り払って、一層自由に正義原理を追求することもできる。しかしこうした試みは、政治哲学として必要でもないし有益でもない。なぜなら、結局のところ、それは「道徳哲学を世界創造の倫理の研究へと変えてしまう」ものであり、「すべての可能世界の中で最善の世界はどれであるのか」を問うてみたところで、その答えは「人間の理解力の範囲を超えているように思われてしまう」からである。それゆえ、政治哲学者が理論を展開するにあたり、一定の現実を所与とすることに躊躇する必要はない。
ただしー次節以降の議論に関わるがーあまりに多くの偶然的事実を前提にしすぎると、政治哲学のユートピア的ポテンシャルが損なわれてしまうことも考えられる。そこで「大切なことは、そうした諸前提は真であり、じゅうぶんに一般的であるべきだということである」。いかなる諸前提が「じゅうぶんに一般的」であるかは未決の問いである。ロールズ自身、後期になるに従って、社会的・歴史的により限定された現実を<理想理論>の一部に組み込み始めているように見える。(p118)
ロールズは正義原理の導出にあたって「資源の希少性」と「利他心の限定性」を前提条件としました。まあこれはこれで割と妥当な前提条件だとは思うのですが、引用文の後半にもあるようにこうした前提条件は議論次第で動かしうるものですし、まさに何を所与の前提とするか、という問題こそが”実行可能性の排除”なる議論によってなしうる限界を示していると言えそうです。そしてロールズの論敵、コーエンが批判するのはまさにロールズの示した前提条件が現実主義的すぎるという点にありました。
以上見たように、ロールズの政治哲学は、<理想理論>を展開する点でユートピア的であり、その際「社会における人々のあり方に関する自然本性的な事実」に依拠する点で現実主義的である。しかしコーエンは、この理想化が不十分であるとして、ロールズを批判している。すなわち、ロールズの政治哲学は本来はるかに遠大な理想を描くことができたのに、そうしなかったのは現実主義的すぎると言うのである。(p119)
実は、ロールズの格差擁護論に限らず、政治哲学の多くは、この種のコーエンの批判にさらされる可能性がある。すなわち、理想状態においては取り除かれるべき不適切な現実を所与の前提とするがゆえに、推論全体が誤った方向に向かい、適切とは言えない結論に達している可能性がある。この意味で、コーエンのロールズ批判は、理想と現実のあいだのバランス問題という本章の主題に届く射程を持っている。すなわちそれは、政治哲学一般が現実をどこまで正義原理に組み込む/組み込まないかという問いを投げかけているのだ。(p123)
このあと「利他心の限定性」についてロールズとコーエンの議論がまとめられていますが、ここについてはこの記事ではパスします。いうても制度の理想を議論する上で、人間のマインドセットまで前提条件から外してしまうのは無理があるというのはその通りで、個人的にはこの点についてはロールズ寄りの立場を取ります。とりあえずここの引用で大事なのはロールズが正議論の前提とした条件も、一応は偶然的な条件に過ぎないという点です。さてさて引用を続けていきます。
C・クカサス/P・ペティットが言うように、今日の政治哲学は二つの研究課題に関わっている。すなわちそれは、「政治的に何が望ましいのか」の分析を含むとともに、「政治的に何が実行可能なのか」の分析も含むものである。問題は、政治哲学者がこれら二つのーときに競合するー課題に同時に取り組む場合に生じる。一方で、政治哲学者があまりにも「望ましさ」の探求に傾きすぎると、案出される正義原理は現実政治に何の示唆も与えない机上の空論や夢物語になってしまう。他方で、政治哲学者があまりにも「実行可能性」の探求に傾きすぎると、案出される正義原理は現状に過度に寄り添うものとなり、その追認的肯定に終わってしまう。そこで、政治哲学者は両者の間に何らかの設定を見出すべく、様々な見解を取っている 。(p141)
一方で、政治哲学者のなかには「望ましさ」の分析に大きなウェイトを置く論者がいる。かれらは、それが実行可能であるかどうかはさておき、まずもって完全に正義に適った状態の社会を自由に描き出そうとする。このように実行可能性を考慮しない政治哲学者の極端なタイプは、 G・A・コーエンである。コーエンは「政治哲学は哲学の一部門であり、その成果は…重要性としては実践に対する帰結に限定されていない」と述べて、実行不可能な正義原理を案出する政治哲学にも依然として意味があると考える。政治哲学は机上の空論や夢物語であって一向に構わない。なぜなら、「政治哲学にとっての問いは、私たちがどうすべきかではなく、私たちがどう考えるべきかーたとえ私たちが考えるべきことが実践上で何の違いをもたらさなくてもーである」からだ。
すると、実行可能性を考慮しない正義原理とは一体どのようなものか。そのヒントはコーエンが立てる「根本原理」と「統制ルール」の区別にある。前者の根本原理とは、ある正当化の作業を続けていった際に、最終的に論証全体を支える規範原理のことである。この種の「べき」は、必ずしも今ここで完全に実行可能である必要はない。例えば、かりに根本原理が「人類は飢餓から解放されるべきである」ことだとすれば、この究極的な規範原理は、たとえこの世界から飢餓を一掃することが実践的に不可能であるとしても、変わらずに真であり続ける。この意味で、根本原理の妥当性はこの世を取り巻く事実に依存していないのだ。(p141-142)
ひとたび根本原理と統制ルールを区別するなら、実行可能性に関する論点は霧消する。なぜなら、後者とは異なって前者の妥当性は、実行可能であるとかないとかいった事実に依存するものではないからだ。コーエンが言うように、「実行可能性が規範的な究極のものを制約するとの教説は、私が統制ルールと呼ぶところの、各人個別に向けられた指針やそうしたものに関するほぼ例外のない真理を、究極規範の性質という全く異なったトピックに対して誤って適用している」。根本原理を特定しようとする政治哲学者にとって、そこで特定される正義原理は実行不可能であって一向に構わない。ここでコーエンは統制ルールの特定それ自体を否定しているのではなく、根本原理を特定しないまま統制ルールを特定しようとすることは論理的に不可能だと言っているのである。これは、政治哲学の役割を根本原理の探求と統制ルールの探求のいずれに結びつけるかというさらなる問題に依存する。(p142-143)
この部分は立論中で引用した部分も含んでいますね。一応コーエンが意図している「根本原理」とベーシックインカムが完全に合致しているかというとそれは違うのが事実ですね。おそらくコーエン的分類の下ではベーシックインカムは「統制ルール」にあたります。ただ「実行可能性を考慮しない正義原理のヒントとしてコーエンがあるよ」って文脈なのでディストーションではなかろうという判断で使っていました。「べき」の解釈については日常的な言語解釈にある程度依存しているところがあるわけで、別にコーエンの分け方がすべてだということにはならないでしょう。実際に「理想として目指すことが望ましい」という形での「べき」が成り立つという話は、このエビデンスからも十分に言えるだろうと判断しています。コーエンの話と完全に合致はしていないものの、適用は可能だろうという感じです。この点は3章でもう少し詳しく触れます。
とにかくコーエンの立場は極端な位置にあるものの、正義原理を考えるうえでの所与の条件を一つずつ取り除いていくと最終的にはコーエンの位置にまでたどり着くという感じですね。どこまでを所与の条件とするかは結局のところ理想主義と現実主義のバランス感覚次第となります。実際、完全に実行不可能というレベルになるとさすがに議論する意味ないでしょって文脈で以下のように続けています。
実行不可能な正義原理が無益か、有害でさえあることの理由は、正規原理が評価的機能とともに、行為の推奨や禁止といった指令的機能を含んでいるからである(本書第九章第一節も参照)。「~べきだ」「~べきではない」といった指令原理は、その対象が意志や努力によって実現可能でないかぎり、意味を持たないように思われる。例えば、「貴方は寄付を行うべきだ」という提案は有意味であるが、「貴方は空を飛ぶべきだ」という提案は有意味ではない。この点で H ・ブリッグハウスが言うように、「文字通り実施不可能な正義の原理は、その事実に照らすなら、誤りである。それは真に責務を記述しているわけではない」。正義原理が指令的であろうとするかぎり、「ought implies can」を満たさない正義原理はその名に値しないのだ。(p143-144)
まあこれはその通りだなあという感じです。ということでベーシックインカムの議論をする際も、いうていつか頑張れば何とかできる感みたいなのは必要だと思います。そういう点で、今回の肯定側も(その試みが成功しているかどうかはともかく)、なんとなくいつかできる感を漂わせるような方向にはシフトしていきました。さてさて、筆者は実行可能性についてもう少し細かく分類しながら論じていきます。ちょっと前までの引用はいうても前座みたいなもので、以下の引用が一番大事ですね(長くてすいません)。
実行可能性は大別して「技術的実行可能性」と「政治的実行可能性」に区別される。技術的実行可能性とは、意志の有無とは無関係に、実現に向けた何らかの道筋が存在する/しないという客観的事実である。政治的実行可能性とは、実現に向けた道筋を辿る意志がある/ないという(間)主観的事実である。さらに、これらの実行可能性のあいだに、諸々のサブ・カテゴリーが含まれるー例えば、財政的、法的、倫理的、制度的、文化的、等々。これらをひとくくりにして「実践的実行可能性」と呼ぼう。すると、「正義原理が実行可能であるべきか、そうではないか」に関する政治哲学者の見解は、彼らがこれらの実行可能性のうち、何を念頭においているかによって大分ニュアンスが変わってくる。
はじめに、技術的実行可能性とは、ある正義原理が自然法則や物理法則、あるいは人間一般の心理的傾向に照らして実現可能かどうかということである。「貴方は空を飛ぶべきだ」という提案が意味をなさないのは、この次元である。他方で、「子どもは両親ではなく国家が養育すべきだ」という提案は、技術的実行可能性をクリアしている。少なくとも歴史上の一時点で、こうした考えが実行に移されていたことはよく知られた事実である。それゆえ、「子どもは国家が養育すべきだ」という提案が実行不可能であるとすれば、それは技術的次元ではなく別の次元で生じていることである。ただしコーエンを含めた大半の政治哲学者が、この種の技術的実行可能性をも考慮しない正義原理を案出しようとしているとは思われない 。
次に、政治的実行可能性とは、ある正義原理を実行に移す公共政策立案が世論から十分な支持を得られるかどうかということである。独裁国家はともかく、少なくとも民主主義国家においては、「子供は国家が養育すべきだ」といった今日の世論の常識からかけ離れた提案は政治的に実行不可能である。なぜなら、世論に背を向けたままではままで政治家や政党が選挙で勝利することはできないし、かりに実行に移したとしても大規模な批判や不服従に直面することは避けられないからである。ただし、この種の政治的実行可能性の制約を理由に正義原理を棄却するのは、保守的にすぎるであろう。格言にあるように、政治とは「可能性の芸術」である。世論は相対的かつ変化するものであるため、政治哲学者が政治的実行可能性にあまりに捕われるなら、結果的に正義原理の現状批判的な力を削ぐことにもなりかねない。
技術的実行可能性が相対的に強い(無視しえない)制約であり、政治的実行可能性が相対的に弱い(無視しうる)制約であるとすれば、これらの中間点には様々な種類と程度のー財政的、法的、倫理的、制度的、文化的、等々のー実践的実行可能性が存在している。この次元に含まれるのが、例えばロールズが正義の二原理の背景的前提(=正義の情況)として挙げた「資源の希少性」である。これは技術的実行可能性よりも弱い制約である。少なくとも観念的には、分配的正義が問題とならないような物質的に豊かな社会を想像してみることは不可能ではない。それは遠い過去に存在したかもしれないし、あるいは遠い未来に存在するかもしれない。同時に「資源の希少性」は、政治的実行可能性よりも強い制約である。現今社会の資源の希少性を克服するためには、少なくとも選挙キャンペーン以上の大幅な社会変革が必要になる。実行可能性に関する政治哲学者同士の対立の多くは、この中間的次元における制約の取扱いをめぐって生じている 。(p144-145)
このあたりでようやく全体像が見えてきたんじゃないかなあと思います。普段のディベートでフィアットによって排除されているのは”政治的実行可能性”にあたります。物理的実行可能性については肯定・否定ともに所与の前提とします。そして肯定側が排除しようとしている実行可能性とはその一歩先にある実践的実行可能性の中にあるといえるでしょう。引用文中で触れられている通り、これらの実行可能性は物理的実行可能性よりも弱く、政治的実行可能性よりも強いものです。そして飢餓のアナロジーで言われる”実行可能性の排除”もまさしく実践的実行可能性の排除にあたるものだと僕は解釈しています。ここについては実行主体にあたる各国政府の意思の問題だと考える人もいるかもしれませんが財政的・制度的制約の側面も強い気がしますし、やはりここで言われる”実行可能性の排除”には実践的実行可能性も含まれうると思います。少なくともそうした「べき」の解釈もreasonableなもののうちの一つではないかと思うのです。
実践的実行可能性のうちの財政的制約をある程度除外して考えようではないか、というのが今回の肯定側の言いたかったことです。もちろんベーシックインカムで動く金額は莫大ですから、この制約は所与の前提だという捉え方はできます。ただ少なくとも今実行可能な徴税方法に限定される必要はないのではないか、と思うわけです。
一方で肯定側は、そうした財政にかかわる実践的実行可能性を排除する一方で、「資本主義」や「貨幣経済」といった条件は所与の前提として残しています。ベーシックインカムの肯定と”実行可能性の排除”という組み合わせの気持ち悪さは、こうしたある特定の実行可能性のみを排除するところにあったと考えます。実際にこの点については肯定側もかなり悩んだところで、うまく説明できないかと苦心したものです。これは以下の3章で詳述します。
以上の実行可能性にかかわる議論がもう一つ問いかけることができるのは、否定側の支持する”実行可能性”も実は政治的実行可能性だけを無視した微妙な代物に過ぎないのではないか、ということです。もちろん政策立案者の立場になる、という考え方をしてみれば「何が取りうる選択肢の中でベストな政策か」という視点において、実行意思の主体の問題のみを無視するのはきわめて合理的なのは分かるのですが、ディベートのルール上直接は政策立案者の立場に立つべき必然性は見出せません。とすると、現状のフィアットなる概念は「政策立案者の立場で考える」ことから演繹されているのではなく、論題の「べき」の文言から演繹し、政治的実行可能性の排除という帰結にたどり着いたと見るのが妥当だと僕は思っています(このあたりあまり詳しくないポイントなので意見・批判欲しいです)。そうであるならば、同じく「べき」の解釈からスタートして、政治的実行可能性以外の実践的実行可能性も排除しようとする考え方は妥当なものの一つではないか、と問いかけることができるのではないでしょうか。
3) ”理想”は並立する?
さて、今回の肯定側の話に戻ります。以上に触れた通り、実は肯定側の”実行可能性の排除”は非常にambivalentなものです。ある一定の実行可能性は配慮するが、財源その他の実行可能性のみ排除するというある種の気持ち悪さは残ります。シーズン中でも「最大限配ればいいので、最小限配るのは理想じゃない」とか「現物で欲しいものがあればただで手に入る社会が真の理想(哲学的アマゾン)」とかいった反駁をしてくるチームもあり、肯定側としてもこのambivalenceは乗り越えて説明しなければならないところでした。結局辿り着いたのは以下のような議論です。
広大/松尾/2001[1]
今日の現実から出発して将来の理想(あるいはユートピア)に至る道程を明らかにするという発想から生まれたのが、「終着点ユートピア」と「過程ユートピア」の区別である。(中略)過程ユートピアが終着点に至る道程の一段階である限り、過程ユートピアは最終目標に至る手段である。と同時に、短期的、中期的目標そのものでもある。ここでは、手段が目的でもあり、目的が手段でもある。(中略)現在から出発して、終着点に至る道筋には、幾つかの通過点が想定される。換言すれば、終着点に至る道程は、幾つかの行程に分割される。あるいは幾つかの過程ないしは段階に分割される。いずれにせよ、最終目標に到達するための、短期的、あるいは中期的目標である。おわり
[1] 松尾雅嗣(2001)「核軍縮における「アキレスと亀」 核軍縮における「アキレスと亀」 もしくは過程ユートピアの陥穽」『IPSHU研究報告シリーズ 研究報告』No.27、pp1-20、http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/27/Ma.pdf
この概念自体は国際関係論の議論で出てきたものでナイとかが提案したものだったと思います(違うかもしれナイ)。エビデンス中では「核兵器の廃絶」を終着点ユートピア、そのための具体的な方策を過程ユートピアとしていて、今回BIで想定されるよりもやや過程ユートピアが現実にとりうる政策に寄っているという違いはあるのですが、あらゆる論題において、構造としてこの区分を適用することは可能だと思います。理想に至るまでの過程も、また理想の一つであるという考え方です。
そしてある種の実行可能性を排除し、他の実行可能性は考慮するという肯定側の立場は、最終的な理想の途上であり、それもまた一つの理想であるという考え方ですね。ここは若干言葉遊びの感もぬぐえないのですが、確かに”理想”という言葉はそれが最終的な終着点であるかどうかに関わらず、”現実”との距離によって測られるべきものなのかもしれません。絶対的貧困のない世界も”理想”ですが、その先にあるみんなが裕福な世界も”理想”と呼べるのではないでしょうか。通常のプラン、カウンタープランの対立では競合性として見られる論点に時間軸を足すことで、”理想の競合性”を否定する試みである、と言えそうです。
前回の記事でお話しした論題の文言の解釈はreasonabilityかどうか、という議論はこのあたりとも関わってくると思っています。まさに試合で問うべきなのは「BIが理想かどうか」であり、ある一定の実行可能性を排除し他の実行可能性を残すambivalentな立場も、BIが理想であることを支持する一つのreasonableな解釈であるという点で(そして決してbetterな解釈にはなりえないという点で)、reasonabilityの解釈と相性が良かったといえるかもしれません。ちなみに大会当日、kritikに詳しい英語ディベート系のジャッジの方に肯定側で試合を見て頂いた際、「この種のcritical caseには資本主義Kなど対抗する理想で勝負すべきで政策形成パラダイムを前面に出すのは悪手だ」というアドバイスを否定側に送っていたのは、個人的にすごくおもしろかったです。その指摘が妥当かどうか別にして、肯定側が論題解釈権について強い権利を持つという考え方の下では、否定側は相手の土俵に乗って戦わざるを得ないという考えが背景にあるような気がします。
以上の議論をふまえて、特定の論題に限らない一般的な問いかけとして可能なのは、”論題の肯定を妨げる”ことと”論題を否定すること”は別の行為ではないか、という問題提起です。そして、ここでいう”論題の肯定”とは”肯定側の”という所有格がついたものだと指摘できるかもしれません。ちょっと事例がズレすぎているかもしれませんが、もしあなたがcounter warrantは投票理由にならないと考えている場合、無意識のままに”論題の肯定”に対して”肯定側の”という所有格をつけているのだといえるかもしれません。counter warrantとて、少なくとも”論題の否定”はしているわけですから。否定側は肯定側よりも、もっと現実に寄せて議論して”論題の否定”を行うこと、もっと理想に寄せて”論題の否定”を行うことはできるでしょう。しかし、それは”肯定の妨げ”になっていますか?というのが終着点ユートピアと過程ユートピアの議論かもしれません。そして今まで”パラダイムの対立”として捉えられていたものも別の仕方で解釈されることになります。つまり肯定側の提出したパラダイムの下での議論が”論題の肯定”ならびに”肯定の妨げ”であって、その他のパラダイムで議論されたものはすべて”論題の否定”でしかない、という解釈です。
以上のような解釈は肯定側に著しく有利なものかもしれませんし、前回の記事に対する批判のうちにもあった通り、「議論する意味」にも関わってくることでしょう。それを踏まえて僕が思うのは、やはりこうした肯定側の立場は純粋にディベートを”ゲーム”として捉え、ルール以外の価値観を極力排除しているものなのではないか、ということです。あるジャッジの方にはcritical caseとし呼ばれてしまった議論ですが、背景にある価値観はcritical theoryのパラダイムに立つkritikと真逆のものだったというのは皮肉ですね(ただし保険として提示している理想の話が大事だという議論はkritikとかなり似ています)。もちろん論題解釈をbetterでやればオッケーという話になればこのへんの議論はすべて霧消してしまうのですが、そうでない限り一つの問いをもう少し真剣に考えてみるきっかけになるのではないかと思います。「我々はディベートの目的や意味とゲームの勝敗を切り離して考えてもよいのか」という問いです。アプローチは真逆になりましたが、kritikが問うたものと同じ問いかけをしているのかもしれません。
4) 以上を踏まえて批判に対する応答
頂いた批判に対してどんな感じの応答になるのかまとめてみます。
・財源は後で考えればいいという立場は、あらゆるDAは後で考えればいいという立場にならないだろうか。後で考えざるを得ないのであれば、affは実際にどうやってDAを起こさずにその理想のプラス面を実現するかを述べるべきで、そうすると結局プラン的なものが必要になるのではないか。
⇒多少雑ではあるものの、いつかできるかもしれない理想の財源例を示し、それで押し切る方向性でした。少なくとも今実行可能な財源に限って議論をする必然性はない。
・実行可能性の排除は、条件付きの別の論題の肯定ではないか。
⇒これはやや水かけ感があるものの、一応「いま」実行可能な手段に絞って考えなければならない必然性が論題から導けない以上、実行可能性をある程度排除できるパラダイム上では「べき」を肯定できている。
・「日本」「制度」という文言は政策形成パラダイムを支持している。
⇒あらゆる国家にとっての理想から演繹して「日本」の理想とできるし、ベーシックインカムが理想なら、日本もそれを「理想」として追い求めることが望ましいとはいえる。「制度」についても、財源を今実行可能なものに限って考える必要はなく、何か理想の財源例を示したうえで、それを含む「制度」は正当化される。つまり「日本」「制度」から導かれるbetterな解釈として政策形成パラダイムはあるかもしれないが、少なくとも理想パラダイムもreasonableなものの一つ。このあたりを踏まえると、なぜ僕が前回の記事でreasonabilityかbetterかみたいな話にこだわっていたかお分かりいただけると思います。
・財政の話は理想に直結する。
⇒財政DAを回避でき、今は無理かもしれないいつかできるかもしれない理想の財源例を想定しうる段階で理想パラダイムの下では通常の所得税や国債発行を前提にしたDAが投票理由になるとは言えない。ただここは肯定・否定のどちらがどの程度論証の責任を負うかについて議論の余地あり。
・パラダイムは、ジャッジがどうやって議論を判断するかという枠組みなので、少なくとも同一試合では複数並存し得ないと解すべき。これはジャッジの専権。
⇒ここは一つの考え方なので何とも反駁しがたいが、「肯定の妨げ」になっていない否定側のパラダイムは棄却可能かもしれない。
5) まとめ・感想など
こうした肯定側の議論を試みて思ったのは、実は政策形成パラダイムも暗黙の前提の上に成り立っていてそこに必然性はないのではないか、ということです。その一方で思ったのは、政策形成パラダイムが選択されてきたのにも理由があるのだ、ということです。政策形成パラダイムは唯一絶対のreasonableな解釈にはならないが、それでも多くの場合betterな解釈になりやすい、というのが現時点での感想です。
一連の記事を書く前は「ディベートのブログ書いてる人はみんなすごくうまくて実力あるディベーターの人ばかりだし、自分なんかが書いてすごく偉そうな感じじゃないかなあ…」と緊張していたのですが、論考の質はどうあれ気にせず書いて発信してみるのはいいんじゃないかなあと思うようになりました。ディベーターの皆さんは批判すべき内容なら喜んで批判してくれるので、自分の考えていることを何か言語化して、それについて批判を受けて、書いたテーマについて考えを深めるってすごくいいプロセスなんじゃないかなあと思います。なので大学生以下の人たちも軽めのノリで思ったことをたくさん書いて、みんなでああだこうだ言ってみるという流れは一つアリなんじゃないかなあと思います。まあTwitterとかがそういう機能を果たしていたり、多くのディベート理論については既にすごい人たちがすごい記事をたくさん書いてる(語彙力不足)のでやりにくいというのは分かりますが。というか、この記事をきっかけに「あいつが書いてるんやし自分も許されるやろw」みたいなノリになってくれるといいですね。多分今回のアファについてお話しする記事はもう書かないです。なんかすごいいい批判が来たら、それを要約したものだけログに残したりはするかもしれませんが…