読書メーターでは本や論文の詳細な感想をログに残せないので、こちらのブログを利用しようと思います。誰かに読んで欲しい!というよりは純粋に読んだ本や論文について記録を残しておくようにしたい、というモチベーションです。あとは公開しておくことで監視されてやらなきゃいけない感をちゃんと出し、自分にプレッシャーをかけることですね。全体を要約する、というよりは読んでて僕が気になったところについてメモを残す感じです。
基本的には授業で扱った論文や本が多いと思います。特に今学期は。まずはGlobal Justiceについてのゼミで扱っている論文から。
Caney, S. (2014). Two Kinds of Climate Justice: Avoiding Harm and Sharing Burdens. Journal of Political Philosophy, 22(2), 125-149. doi:10.1111/jopp.12030
まず筆者は環境問題、特に気候変動の問題については負担の公正な分担について論じる分配的正義っぽいアプローチと、気候変動で起きてしまう大惨事を避けるために如何に責任を割り当てるかといった視点からのアプローチに大別され、両者の正義の間にある種のトレードオフの関係が成立することに触れつつ、従来後者についてのアプローチが少なかったことを指摘します。
これはいい指摘だと感じました。多少環境問題に関する事実認識に依存する部分もありますが、分配的正義っぽい側面だけでは語れない固有の点があるのだなあと伝わってきます。こういう正義の区分の仕方は他の分野にも応用できそうですね。要は「負担の公正な分担とか言ってる前に、とにかくこの惨事避けるのは最優先や!」みたいな事情が直感的に伝わってくるようなケースでは応用可能な区分なので、戦争のお話、人道介入のお話でも行けそうですし、「政治について決定の時間は無限ではなく、何か異論があってもスピーディーにある程度決めていくことは大事」という文脈をしっかり一般化した上で、政治的決定についてはこうした分配的正義だけでは語れない側面があるんだ、というお話にも使えるかもしれません(ちょっと離れすぎているかもしれませんが)。とにかく、「何か切迫した大惨事を避ける」必要性のあるテーマでは、分配的正義の側面からの批判にしっかり応答していけるんだって筋道を頭の中に持っておくのは大事だなと思いました。
前半の「国際的パレート効率」と「犠牲なき気候変動の防止」への批判は特に書くことないです。そもそも大したことない議論だし、筆者の出している反駁で十分ですし。いかに筆者のメインの主張をまとめつつ、思ったことをいくつかメモします。
筆者は気候変動の防止にかかわる負担の分担について、これを一階の責任(first-order responsibility)と二階の責任(second-order responsibility)に分けて考えます。前者は気候変動を防ぐ行為をする直接の責任を指し、後者は一階の責任がきちんと果たされるように監督する責任みたいなものを指します。二階の責任については論文中で細かい分類やそれを担うアクターが示されていますが興味ないので触れません。一回の責任が果たされるよう「強制する責任」「動機づけの責任」(国家や国際機関など)や「規範を創生する責任」(カリスマ的個人、詩人、小説家など)などいろいろでてきます。まあいろいろあるし、その二階の責任を負うのが国だけじゃなくて全く関係なさそうな個人にもなりうるっていうのが大事です。
正当化根拠がすごく大事ですが、これが結構弱めです。Power/Responsibility Principleという原理を持ち出しています。二階の責任を果たす力があるなら、その責任を負うのだという原理です。①気候問題が緊急の問題②ある個人(ないし機関)の力は問題の解決に有効③その役割を代替する存在が希少④二階の責任を持つ人が、それに対抗するより大きな別の責任を持たない、という理由で正当化されると筆者は述べています。大惨事を避けることにpriorityを置いて頑張って個人に重い責任を負わせたって感じがしますね。
筆者は一応ありうる反論②として「コストが過大だ」というのを取り上げていますが、いうてそんな大きくないとか、その人がコストを回避するのは別の人に大きなコストを課すことだからダメだとか、責任を果たした後に保障を求められるのに対し、気候変動で死んだ人は保証できないから優先されるのは後者とか、いろいろ言ってます。まあ結論としてはこの反論②が、筆者の想定よりももっと大事な部分でしょって思いますし、少なくとも筆者が定式化したPower/Responsibility Principleの欠陥は明らかにしていると思います。
分析系の政治哲学の議論をしてるので、せっかくなのでそれっぽい思考実験でも出してみます。「すごく弁論術に長けていて、カリスマ性もあって、環境問題に関する規範を創生するにはこいつが最適で、彼がやらなきゃ他にはできない!ってレベルで才能に溢れたAさんがいる。けれども彼は環境問題に関わっていく運動かなんかより、地元で平穏に教師をやりたい」みたいなときに、この二階の責任は彼に環境問題の運動家たらしめることができるほど強いか?と問われると答えはNoだと思います。
筆者は過大なコストは課さないこと、みたいな留保をつけているつもりなんでしょうが、少なくとも「二階の責任を持つ人が、それに対抗するより大きな別の責任を持たない」みたいな条件だと、個人が自分の望みとしてやりたいこと、みたいな点は絶対無視されちゃう気がするんですよね。気候問題の回避をすごく大事な責任だとすると(実際筆者の論はそうしてる)、「行為する人が個人的にやりたいこと」はそれに釣り合うほどの「責任」を発生させているかっていうと微妙な気がします。
ここで「環境問題に時間を充てるより、その時間でポケモンをやりたい弁論の才能に溢れたBさん」を引き合いに出して考えてみると、それなら気候問題に関わる責任優先してもいいのでは?と言われると直観適合的ではあると思います。ただBさんのコストは許容されて、Aさんのコストは許容されないことを正当化しようと思うと、
1) 少なくともPower/Responsibility Principleでは「責任の衝突」しか考慮していなかった点を改めて、個人の選好レベルで衝突したときに、一定程度「環境問題に関わりたくない」という選好を優先して、その選好の強さや理由とコストを相対化して評価しなきゃいけなくなる。結局はコストの程度問題に後退し、客観的な基準を提示するのも難しい。
2) Aさんの理由とBさんの理由の差別はある種、卓越主義的でリベラルの中立性には反する。「この選好は二階の責任を免責する程度に正しくて、あの選好は免責できないレベル」みたいな判断を国がやるのは、諸個人の自由な生の構想に介入しすぎで許容できない。
3) 義務のレベルではなく、あくまで強制力等は伴わない「責任」のレベルで論じていたとして、この責任の構想が果たす役割が不明。結局何の影響も与えないのでは?
という問題が生じるかなーという感じですね。
一階の責任と二階の責任を区分けする構想は面白いと思いますし、国家や国際機関等のある種の自主選択や公共性が伴う人たちの責任構想としては上にあげたような批判も当たらないのである程度機能すると思っています。とはいえやっぱりなんでPower/Responsibility Principleが成り立つかは証明が薄いですね。さっきの極端な事例(教師になりたいAさん)を考えてみて成立しない場合、当該原理の正当化に当該原理以外の理由(例えば議員なら「自分で選んだ職だから」「公共性が問われる職種だから」など)を持ってきてるってことになると思います。
次回以降も読んでる人がいるかは知らないけど適当に感想をつらつら書こうと思います。ログを残してみて書いてる途中に思うことも出てくるので、やっぱり読んだら記録に残す、というのは大事ですねー。