2015年1月12日

記念すべき第1回目の集会が開催されました。

場所は池袋のフレンチレストラン。

美味しい食事と美味しいワインと共に、心の糧もいただきました。

レストランなのに、短い時間の瞑想までしてしまい、ちょっと怪しい雰囲気もありましたが、レストランオーナーシェフの寛大な心で優しく見守られていました。

私は少々呑み過ぎでしたが。


さて、本題です。

写真はプレゼンターのSさんのレジメ。

文字が大きいので、読みやすいですよね。


一応、レジメの内容を書いておきます。


☆ブッダが悟ったこと


生老病死に悩むブッダ

→ありのままに観察してみました

→苦と苦の消滅の発見

①一切皆苦:この世の全てが苦

②諸行無情:全てのものが生じ変化し滅していく

③諸法無我:不変の我はない

①~③に気づくと

執着(自分の思い通りにしようとすること)がなくなる!

⇒苦の消滅=涅槃

☆体験してみよう!!

 体、感覚、心の観察

⇒自分で確かめるのが仏道

☆生きとし生きるものが幸せでありますように


ここで、私からのコメント。

聖書ではどうなのか?

宗教は皆同じと言う人も多いですが、ちゃんと勉強するとぜんぜん違う事が分かります。

それでも、あえて共通点を見出してみましょう。


①一切皆苦:苦しみとは自分の思い通りにならない事と解釈すれば、全ては自分の思い通りにならない

 聖書では

  • 34:マタイによる福音書/ 05章 34節-36節
    しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
     人間は何も自分の思い通りにならないので、誓いなどたててはならないとの事。
  • ②諸行無情

    コヘレトの言葉/ 01章 2節―4節

    コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。

    太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。

    一代過ぎればまた一代が起こり/永遠に耐えるのは大地。

     諸行無情については、けっこう聖書のいたるところに同じ思想がありますね。

    ③諸法無我・・・・・さすがにこれは無いかなと思ったけれど、いくつか近いものがありそう。

    我は常に変化しているので、同じ我は存在しないと解釈すればこれですね。

  • 9:コリントの信徒への手紙一/ 13章 09節ー11節
    わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
    完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
    幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

  • さて、問題はその次。

    ④涅槃

    さすがにこれは聖書にはないでしょう?!

    自分の思い通りにしようとすることが無くなるのであれば、イエスの十字架の前日の祈りでしょうか。

  • 41:ルカによる福音書/ 22章 41節-42節
    そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
    父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。
    ところが、仏教では、涅槃寂静ですね。
    イエスの祈りはまったく正反対です。上記に続くのは
  • 44:ルカによる福音書/ 22章 44節
    イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
     とても寂静ではありません。
     近い感じとしては次の記事でしょうか
  • 16:テサロニケの信徒への手紙一/ 05章 16節ー18節
    いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
     自分の思い通りにならない事ばかりでも喜び感謝する生き方は、涅槃寂静に近いと思いますがいかがでしょうか?


    私のコメントは以上です。
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