Facebookの友達が書いてました。
日本に文字が現れたのはいつ頃なのか、調べると西洋文明よりもはるかに古い日本、その時聖書はあったかどうかわ知らないが、支配したものによって語り継がれるのは世の常、従った大袈裟に信ずるに値しないかもしれない・・・・・
以下その内容・・・・・
還暦過ぎてから独学でヘブライ語をマスターしたという95歳の翁と話しました。 この方は、聖書を読破されている方ですが、
あるときから、旧約聖書のほとんど大事なところが改ざんされており、まったく意味の通らない非論理的な内容になっていることに気付いたとのこと。
そして、新約聖書は、改ざんされた旧約聖書をもとに書かれているとのことに気付かれましたが、牧師さんをはじめ大多数の信者は、なぜか「オカシイ」と思わずに、書かれているままそのままを信じているので、「オカシイとおもわんか?」という神(天)との対話が始まったそうです。
以来、30年以上にわたり、改ざんの箇所を修正して、解読をされ、どれだけ、おかしな非論理的な内容を、牧師や学者や人々に教える立場の人達が矛盾や非論理に無頓着で、書かれたままそのまま信じているということでした。
私は、その種のものは国の統治のために、何度も改ざんされている内容であることとをわかっていると、その旨伝えましたら、
「人間というものは、オカシイものでも、なんどもなんども聞かされているうちに、それが正しいと思う生き物だ」とおっしゃるので、
それは、共同幻想のなせる業ですが、私はその種の幻想には引っかかる人が大多数であるがゆえに、おかしなことがまかり通ってしまうのではないでしょうか?とお伝えしました。
「事実と解釈」の違いを識別する習慣をもつことが、とっても大切だと思います。 自身の認識違いは、前提となってるフィルターからきてます。
事実あるがままに観察する力を身に着けるためには、自身を取り巻く家庭環境や地域社会の慣習など生い立ちから得た「思い込み」・「偏見」、社会から刷り込まれた価値観など、どのような前提条件でもって、物事を判断しているのか、知る努力が必須であると思います。