1人になれる時間は好きだ。一人っ子だった私は自分一人になれる時間が多かった。普通はそういう子ほど、人が多い空間を望むのかもしれない、私もそうなのだが一人の時間はそれはそれは好きだった。

 永遠のような時間だった。

時間は静かに流れ、六月とは思えぬカラッとした風が私を抜けてゆく。少しめまいがする。

「すこしのみすぎた。」

そうつぶやいて、時間を見る。

四時だ。ちょうど始発まであと一時間。することがない。

足下がおぼつかないまま、喫煙所へ向かった。最近の駅というのは、どこも禁煙なのだ。だれもいない喫煙所で一本のたばこに手を伸ばす。白い煙が喫煙所を包み込んだ。携帯電話を取り出してみたがメールも着信もないことを確認してすぐにポケットにしまいこんだ。そんな折、一人の男が入ってきた。タバコにも手を付けず、じっと立っている。

「どうかしましたか?」

ついきいてしまった。

背の低い男が私の方を向いて言う。

「いいえ、何にも。すこし疲れたので。」

疲れたとは言え、ここは喫煙所だ。それをここにはいって、タバコに手を付けず立っているだけなど、滑稽でしかなかった。

「タバコ、吸わないんですか。」

私は自分のタバコを勧めるように手を延ばしてみたが男は呆れたような顔で、

「タバコなんて体に悪いだけですよ。」と言う。

私はすこしムッとして返事をしなかった。

何分かたったあと、男が急に口を開いた。

「あなたはもし明日死ぬと言われたらどうしますか。」

私は男が何を言っているのか、言いたいのかわからなかったが、その時酔いが覚

めた。

「そんなこと、なってみないとわかりません。」

と答えると男は、

「明日がその日なんです。」

私は男の言う意味がわからず黙っていた。

「医者によれば私は明日死にます。病院のベッドの上で死ぬのは耐えられず、飛び出してきちゃいました。」

笑って言う男の顔には表情がないように感じられた。私にできることも何一つないように感じられた。

「せっかくここであったのも何かの縁です。お暇でしたら付き合っていただけませんか。」

私は声も出さずうなずいた。

「私はひとつだけ人に誇れる趣味があるんです。」

「なんですか。」

「ギターです。小さいころから好きでした。その趣味に生きたせいで失ったものも多いです。後悔だってしています。でも、やめられませんでした。大切なものを失っていてもそれだけは捨てられなかったのです。私の最後の演奏になるでしょう。お暇でしたら我が家で聞いていってください。」

そういう男の横顔は部屋に差し込む朝日で輝いていた。

「行ってくる。」
そう言って玄関の扉に手を伸ばす。
「行ってらっしゃい。」
妻の言葉に軽く頷き、外に出る。変わらない景色だ。こうやってスーツを着て歩
くのももしかしたら今日が最後かもしれない。
長い道のりだった。夢に燃えていた学生時代の私が今の私をみればどう思うだろ
う。
私は今の生活に満足している。娘の恵は昨年結婚し家を出た。
その双子の弟である洋輔も大学を卒業し外資系企業に勤めた。
彼らがいたから今の私がいる。
ふとそういう感情がわいてきた。あぁ年をとるとはこういうことなのかとしみじ
みと感じる。
駅前のコンビニで栄養ドリンクを買い、人混みに紛れて行く。
今日も電車は満員でペースもかわらず進んで行く。
仕事はなんら変わりなく終わった。時折同僚たちが「今日でおやめになるんです
ね。」だとか、「お疲れ様でした。」だとか声をかけてくれるのは嬉しくも、少
し悲しかった。彼らを同僚と呼べるのも今日で終わりなのだ。
仕事を定時で終え、挨拶を済まし私は退職となった。
長い長い生活だった。
この職場を選んだことに対して後悔したことは一度もない。父の話をすれば、よ
く私の父は「この仕事は好きでやってる。でも、この仕事を天職だとは思ってい
ないよ。」と私に話していた。父はいわゆる金の卵と呼ばれる世代で中卒ですぐ
に仕事につき、60で定年退職を迎えるまでその職を全うした。父の天職とは何だ
ったのだろうか。この歳になってそれをよく考える。父が生きてくれてさえいれ
ばいいのだが、その父も12年前に亡くなった。
父は偉大だった。父の父は多額の借金を父に残し亡くなった。
早くに結婚していた両親はその借金をひたすら働き全て返し、マイホームまで購
入し、息子である私を大学まで行かせた。一筋縄じゃいかない苦労であろう。そ
んな父でも天職を見つけられなかったというのだ。
たしかに金の卵として中卒で働いていたからというのが大きいかもしれない。父
はどこかできっと大学をでたかったという気持ちがあったのかもしれない。それ
ゆえ私は父には教育に関しては熱心な指導を受けた。勉強しないからといって怒
るわけではなかったが、父は私の興味をそそることや、私を褒め伸ばすことが上
手だった。父のおかげでこの職を全うできた。天職かどうかは今の私には計り知
れないが、私も息子たちには父と同じ言葉が言えると思う。

慰労会があることは伝えてはいたが、私は妻に電話をかけた。
仕事終わりの電話は私たち夫婦のそして私の両親の日課であった。
「もしもし。」
幾度となく聞いた声。
「もしもし、慰労会に行って来るよ。」
「行ってらっしゃい。あまり飲み過ぎないようにね。」
ありきたりな会話だったが、なぜかその時は涙がこらえられず震えた声であぁと
だけ答えた。
「最後なんだから男らしく、職場のみなさんに笑われないようにね!」
涙を流す情けない男の声が妻に聞こえたようだ。
「分かってるよ。」
そういって、携帯をポケットにしまった。

慰労会は思っていたよりもなかなかに盛大だった。騒ぐ同僚たちの声、二次会で
の上司の尾崎豊、悪ノリした馬鹿への女性社員の悲鳴、様々な声が耳に残ってい
る。

時刻は午前3時。終電を逃したので駅で始発を待つ。1人になれる時間は好きだ。
一人っ子だった私は自分一人になれる時間が多かった。普通はそういう子ほど、
人が多い空間を望むのかもしれない、私もそうなんだが、一人の時間はそれはそ
れは好きだった。