目覚めるとすでに時計は11時を回っていた。

寝ぼけながら時刻を確認すると、俺は布団の中の温かいぬくもりを惜しみながら、ゆっくりとベッドから降りた。冬の凍えるような寒さが部屋の中に溢れているのではないかと想像していたが、日も昇っているせいか心なしかそこまで寒さはなく、むしろ窓からの日差しのおかげで暖かささえ感じられた。

遅めの朝食を摂るため、テーブルの上に置いてある食パンに冷蔵庫の中にある冷えたマーガリンを塗って食べることにした。

俺はパンをほおばりながら、昨日の康太との会話の節々を思い出し少し後悔していた。それは雑貨屋で働く機会を失ってしまったことに対してではなく、俺のことを心配してくれた康太にあんなに冷たい態度をとってしまったからだ。

バイトとあいつらと遊ぶことしかしていない単調な生活を送る俺にとって、大学生活唯一の友達である康太との縁がこれで切れてしまうかもしれないと思うとひどく悲しくなる。

今まで大学時代にも康太と喧嘩などしたことはなく、俺らはいつも平和な仲の良い関係を築いていた。

しかし初めて揉めてしまったことで、この後俺らの関係性がどうなるかなど全く想像なんてできず、それに友達などいない俺にはお互いが気まずい関係になった後の歩み寄り方など分からなかった。

心の中で康太への自分の言動を嘆きながら淡々と食べていると、舌の味覚に感情が伝わったのか、今日に限っては毎朝定番のお気に入りのパンの美味しさが消えてしまっていた。

着色だけしてある水のジュースを飲んでいるような感覚のまま朝食をゆっくりと食べ終え、俺はあいつらのところへ向かうため服を着替え始めた。

部屋の掃除に関して割と几帳面な方であったが、パンを食べた皿を流し台に置いておくことも、マーガリンを冷蔵庫に入れることすらも無性に面倒になり、2つともテーブルの上に残したまま家を出た。

今日の空は俺の淀んだ気持ちとは裏腹に晴れわたっていたが、俺にはただ眩しいだけでずっと照らしてくる日の光が不快に感じられた。しかし太陽はそんなことも気にせず明るく街を照らしていた。
「俺の近所に雑貨屋をやってる爺さんがいるんだけど、もう高齢だからそろそろ誰か継がせる人を探してるんだってよ。家近いしけっこう仲が良いからさ、誰か頼りになる人がいないかって頼まれちゃってさ。それでお前を誘おうと思ったわけよ。な!悪い話じゃないだろ。」

確かに悪くない話だった。俺もそろそろ就職をと考えていたし、只の三流大学での俺にいきなり雑貨屋の店長を任せてもらえるなど、願ってもいない話だった。いつの間にか俺は満更でもない表情になり、康太がその顔を確認すると、得意げにまた口を開いた。

「火曜日がその店の定休日だから、その日のお昼に一緒に行かないか。俺が丁度いい奴がいる!って言ったら、その爺さん喜んじゃってさ、ぜひ直接会って話がしたいって言ってるんだ。な!いいだろ。」

康太はまた後尾を強めて俺を勧誘してきた。その甘い話で俺の心はだいぶ揺れ始め、それに酒を飲んでいるせいもあってか俺は簡単に了承しようとしたが、不意に俺の思考をさえぎるかのようにあいつらの顔が頭に浮かんできた。そうだ。俺が定職に就いたら、あいつらはどうするんだ。下手したら見捨てることになってしまう。ここまで関わっておきながら、いきなりあいつらを見捨てることはできない。一体誰があいつらを守ってやれるんだ。そう思うと一気に酔いが醒めて、俺はきっぱりと康太に告げた。

「悪いが、俺はやめとく。」

「え?急になんだよ。せっかくの話なのに。こんないい条件なかなかないぞ。」

「俺には十分すぎる話だと思ってる。でも駄目なんだ。このままもし俺が定職に就いたら、きっと俺はあいつらを守ってやれないんだ。仕事はおろそかにできないし、あいつらと過ごす時間も作ってあげられない。だからこの話断るよ。」

俺はゆっくりと言葉を選び、真面目に淡々と断った。それでも康太はまだやりきれないような顔をしていた。

「まだあの子達の面倒見てるのか…。それでも、今のままじゃって気持ちもあるんだろ。」

「それは思ってるよ。でも、あいつらのことを考えたらまだできないと思う。」

「まだっていつだよ。」

康太の声に少し熱が篭ってきた。

「わからない。」

「わからないって…そんなんじゃ、いつまでたっても定職に就けないだろ。」

「かもな。でも、俺はあいつらを見捨てるわけにはいけないんだ。悪いけどもう行くよ。今日は誘ってくれてありがとな。」

静かにそう告げると、俺は財布から出した1万円をテーブルに置いて出口へ向かった。

「和也!ちょっと待てよ!」

康太は声を荒げて追いかけてきた。

「お前はいいのか、それで!今動かないと一生このままだぞ。一回爺さんに会って話だけでもきかないか!なあ!」

康太の必死の呼びかけにも反応することなく、俺は一度も振り返らないでそのまま店を出た。外はだいぶ寒くなっていた。吐く息が白くなるほど気温は下がり、俺は手が冷たくならないように手袋を装着して、自転車に乗って家へと向かった。乗り始めた頃には康太の叫びも届かなくなっていた。

 雑居ビルの一階にある小さなレンタルビデオ屋でバイトを終えて、太陽が沈みかけになった夕方に俺は商店街の路地裏にある飲み屋を訪れた。

「おう和也。久しぶりだな。先にやってるぞ。」

 狭い店内の奥から塩崎康太の図太い声が聞こえてきた。いまさらだが和也というのが俺の名前だ。

「大学卒業して以来だから2年ぶりか。それにしても急に呼び出すなんてどうした。・・もしかして結婚の報告でもあるのか?結婚式の司会なら無理だぞ。先に断っておく。」

「そんなんじゃねーよ。俺みたいな農家じゃ出会いもないし、相手探しも人苦労だ。まあ、とりあえず話すのは乾杯してからにしようや。早く頼め。」

 俺は久しぶりの旧友との再会に気のせいかテンションが上がり、少し饒舌になっていた。すでに火照り顔になってほろ酔いの康太になだめられながらすぐに注文をして、店員が生を運んできた後、俺らは久々の再会に乾杯した。

 それから思ったよりも2人とも酒は進み、互いに語り合った。ほとんどの話題は大学時代の昔のことで、どこにでもありふれた他愛もない話ばかりだった。でも、変わり映えのしない淡々とした日々を過ごしている俺にとっては、そんなくだらないことで盛り上がれる時間がとても心地良かった。

「康太のとこのお父さんとお母さんは相変わらずか。」

「ああ。元気すぎて困ってる。俺がゆくゆくは農家を継がなくちゃいけないのは分かるんだけどな~。毎朝5時に起きてそれから日が沈むまでの仕事の間、何かミスる度に親父は頭叩いてくるし、おふくろは怒鳴ってわめきたててくるしおっかなくてしょうがないんだよ。」

「それは何度もヘマするお前が悪いんだ。大学のときも実験で同じミス繰り返して、授業時間とっくに過ぎてるのに先生と一緒にずっと実験やってたろ。あの時の先生の苦い顔が今でも思い出せる。」

「あれは教え方の問題だろ。うちの親みたいにギャーギャー、あーしろこーしろって命令してくるからテンパッちゃってさ。」

「まったく、あの時と何も変っちゃいないな。」

 俺らはその後も昔話に花を咲かせて盛り上がっていた。康太は日ごろのうっぷんが溜まっているのか、よく話題の切れ切れに愚痴をこぼし、それに対して俺がつっこんでいく一連の流れが当時と何一つ変らなかった。康太の愚痴はいくら聞いていても不愉快な気持ちにはならず、まるでくだらないことでわめいてる子供のケンカのように不思議と聞こえてくる。でかい図体に似合わないその康太の子供っぽさが俺は好きで、大学ではよく康太と共に行動していた。人と関わるのが面倒だった俺が気を許した数少ない友達だ。 

「そうだ!俺の話ばっかで聞くの忘れてたけどさ、和也はまだあそこのビデオ屋で働いているのか。」

「うん。2年間ずっとあそこでバイトしてる。特にしたいことも無いし、とりあえずは続けるつもり。だけどそろそろどこかには就職しなきゃって気持ちも少しあるけどな。でもあいつらの面倒もみなくちゃいけないから当分はこのままかな。」

「そっか・・・。でも実はそんなお前に良い話を持ってきたんだ」

「良い話?」

 康太は急に前のめりになって、楽し気な表情で俺の顔をのぞきこんできたが、俺は一瞬顔をしかめた。なにか面倒な事に巻き込まれるような気がしてならなかったからだが、そんな俺の苦い顔も気にせず、康太は興奮して話を続けた。