老いると共に出来ないことが増えていく。それに対してストレスを感じる方はいらっしゃるだろう。


映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』では、主人公は老人として生まれ、青年、子供、赤ん坊と若返りつつ、そして命の誕生前へと消えていく。意味は違うが、まるで究極の「赤ちゃん返り」のようだ。


赤ん坊は生まれた時、何も出来ない。老人は高齢化するにつれて、普通の人にとって当たり前のことが出来なくなっていく。

この違いは「初めから出来ない」と「少しずつ出来なくなっていく」のだが、視点を変えてみると「積み重ねて形作っていくもの」と「形作ったものが崩れていく」。

つまり、「0からのスタート」と「0へ向かっていく」。どちらも0だ。


しかし、赤ん坊はポジティブなのに対し、老いていく人にはそんなイメージが少ないのは何故だろう。それは、介護があるからかもしれない。


認知症になって、忘れてしまうのが怖い。人が変わったかのような態度になられてしまうのがストレスだとか。


これはやむを得ないと思う。その人との良かった時の思い出が壊されてしまうようで悲しくなるし、不愉快で目を逸らしたくなるのだろう。


でも、私は逆に思う。思い出は塗り替えられることはないが、いつか薄れていってしまう。そうして、思い出せなくなったとしても、想いは残る。大事なのは、いかに一緒に過ごせたかだ。


老いて出来なくなるのは自然なこと。本人も周りもそれを受け止め、いかに過ごすかを考えるのが最善なのではないかと思う。

我が儘言ったり本音を言ったり喧嘩したりして、そうやって過ごした日々の中、嫌な思いをしたとしても、それも一緒に生きたという証(想い)として心に残る。


そうして、想いを遺して逝った者は何処かへ還るのだろうか?答えの無い問いだけれど、『還る』事だけは何となくそう思う。