投資とコーポレートガバナンスは別物? | Market Cafe Revival (Since 1998)

Market Cafe Revival (Since 1998)

四つの単語でできた言葉の中で、最も高くつくものは「今度ばかりは違う」である(This time is different.)。

☆ ここのところ「一考に値する」議論を展開する「大機小機」の「渾沌」が,また興味深いことを土曜の日経に投稿している。日高レポートふうに(笑)ザックリ趣旨を書いておくと。。。


(1) 株価テコ入れの需給対策は日本のお家芸だった。

 ・ 太平洋戦争中の株式投信の新規導入=株価浮揚による戦意高揚

 ・ 戦後の投信再開=財閥解体による株式放出で緩んだ需給の引き締めを意識

 ・ 証券不況(1965年)=株価買支え(日本共同証券・日本証券保有組合)

  →買い上げられた株が銀行と企業にはめ込まれ,持ち合いの岩盤になった

 ・ 2002年の政府・日銀の株価対策=銀行中心の持ち合い解消の受け皿


(2) 今回は何が目的か,それが問題だ。

 ・ 過去10年で銀行中心の持ち合い解消は劇的に進んだ

 ・ その穴を埋めたのは外国人と一部投資ファンド

 ・ 彼らが株式市場を乱用し混乱を招いた


(3) 持ち合い解消の大義名分が,資本と統治を空洞化させた不健全な市場構造

  の正常化なら,外国人売りの肩代わりの大義名分は,保有の3割,売買の6割

  を外国人が占めるいびつな市場構造の正常化である。


☆ 渾沌のこの議論とその前提にある認識は総じて正しい。株式市場というものを「公器」と考えれば,ある種の「投資ファンド」や「アクティビスト」は彼らには誠に失礼ながら「まるで利益供与を強迫(←「脅迫」ではない。)するような傲岸不遜な「投資家」だった。基本的に運用利益と企業統治とは利益相反を招きやすいものであるから,一部の株主の利益のためにその他多くのステークホルダーの利益が犠牲になるという状態は「会社法学」上はともかく,経営論で見れば健全な状態ではない。


☆ しかしこの認識は同時に「ミカン箱の中に一つ "腐ったミカン" が混じっていたら,そのミカン箱全体が腐っている」という「腐ったミカンの方程式(小山内三恵子=「金八先生:第二シリーズ)」を招きやすい。ガバナンス(企業統治)の問題は,ガバナンス側にも問題がある場合は少なくない。いち泡沫投資家としては,わざわざそんな「J何とか」みたいな「会社」に投資しなければ良いだけであるが,我々までそんな「腐ったミカン」と同類に扱われることは甚だ心外である。だから「市場をめぐる冒険」の頃からずっと彼等を論難し続けてきた。


☆ さらに市場の問題として考えてみれば,現物株だけの流通が前提であれば渾沌の議論にも説得力があるのだが,筆者(おそらく彼等論者)も大の苦手である「金融工学」なる世界のお蔭で,現物株市場はデリバティヴ(派生商品)市場と深くリンクしている。225をまとめて買う力のない投資家でも先物と現物ETFを使えば容易に裁定取引が出来る「現実」を渾沌は見逃している。


(4) 外国人売りの吸収を担うのは元本保証・株式ETF転換権付き官民ファンド

 ・ 株式ETFも株式投信と同様2002年の持ち合い解消に伴う需給対策として銀行

  の保有株をベースに組成された

 ・ 金融機関も事業会社も機関投資家も国民経済の中間組織で,その背後に国民

 (個人)がいる。

 ・ 株の長期保有に適しているのは決算のない個人

 ・ 個人の直接保有には限界がある

 ・ 中間組織の誰かが主要株主になる必要がある


☆ 渾沌の提案は現実的だ。そこに米国流の「プルーデントマン・ルール」を導入で

きればなお良いのだが。もちろんこうした運用の完全なパッシブ化がどういう状況

を招くか「相場」を知るものなら容易に想像できるだろう。そこは静かに「死んだ海」

のようになる。時折立つ漣(さざなみ)は「野中の一本杉」のような「仕手相場」だ。

ちょうど加藤アキラの「新しい風の会」の「兼松日産農林相場」のような。

(アキラは日かんむりに高)


☆ ただし盤側・渾沌・猪突のような攘夷主義三人集には都合の良い話だろう。

正しい議論ではあるが,底意を汲むと素直に同調できないのが残念だ。筆者ご

とき泡沫投資家にそれを指摘する資格があるかどうか良く分からないが,

最後にこの議論の結びを引用する。認識は正しいと指摘しておこう。


> 射程を日本資本主義の再設計に定めれば,株価対策は市場をゆがめるだけとの紋切り型の批判をかわせよう。そのためには,最終的に誰に株を保有させたいかを明確にし,そこに導くための法やルールの整備など骨太な出口戦略が欠かせない。